2011年11月18日 (金)

NICOLAの普及へ向けての一試論(上)(親指シフト導入記25)

0 はじめに

 前回の記事のラストで筆者は、「本質的に良いものは残っていくだろう」という趣旨のことを書いた。NICOLA(とそれにまつわるソフトやハード)もそのような文化=作品の一つだと、個人的には確信している。

 しかし同時に、どんなに優れた文化であっても、その担い手がいなくなれば容易に衰退し滅んでしまうということも、紛うことなき事実だったりする。人々の生活から切り離された文化(たとえば、博物館の展示品など)は、「生きた文化」としては既にその使命を終えてしまっているのだ。(注)

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2011年11月17日 (木)

完成度の高さとその逆説(親指シフト導入記24)

1 アナログな使用感

1・1 指が成長する?

 親指シフト入力の快適さについて、「指がしゃべるような感覚」と評した人がいる(こちらの語録を参照)。

 筆者の場合、まだその境地にまでは達していないが、NICOLAで文書を作成する経験を積むにつれて、キーを打つ指(手)が次第に成長していくような不思議な感覚に捕らわれることはあった。

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2011年11月16日 (水)

NICOLAが知的生産に及ぼす影響について(下)(親指シフト導入記23)

3 変換スタイルが文章の生成に及ぼす影響

 前回の記事で触れた「文章の饒舌化」には、実はもう一つ別のテーマも絡んでいる。「IMEの変換スタイルと文章生成の関連性」というテーマがそれだ。

 以下、この問題について詳細に検討することとしよう。

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2011年11月15日 (火)

NICOLAが知的生産に及ぼす影響について(上)(親指シフト導入記22)

1 縦書きとの相性は?

1・1 きっかけ

 もともと筆者が親指シフトを導入しようと思ったきっかけは、縦書きモードでのローマ字入力に違和感を覚えたことであった。詳細はこちらの記事に当たっていただきたいが、要はこういうことである;

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2009年12月29日 (火)

「眠れない三日月」論(11) 詞の解釈をめぐる諸問題

 以上、「眠れない三日月」の歌詞についてあれこれ検討(妄想?)してきた。歌詞について筆者の言いたかったことはほとんど書きつくした気がするので、最後に「詞を解釈するということ」について、何点か補足しておくことにしたい。

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2009年12月28日 (月)

「眠れない三日月」論(10) 「私たち」という共同体への祈り

6・2 新ヴァージョンの歌詞の再検討

 新ヴァージョンの詞を書くにあたって、舞衣子が「恋(好き)」と「愛」の違いについて深く掘り下げて考えようとしている点については既に言及した(「2 新ヴァージョンの詞について」の冒頭で引用した舞衣子自身の弁を参照)。そして、これまでの記事で分析してきたように、今回の作品には「愛」という営みについてのかなり深い洞察があちこちで示されている。

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2009年12月27日 (日)

「眠れない三日月」論(9) 「恋」のダークサイド

6 再び「眠れない三日月」の詞について

 さて、これまで長々と「恋」や「愛」について論じてきたのは、「眠れない三日月」の歌詞を評価するための「視点」を獲得するためであった。我々がふだんごっちゃにしがちな「恋」と「愛」をこのように明確に区分する「視点」を導入することで、「恋愛」に伴う様々な事柄がいろいろと見えやすくなったのではないかと思う。

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2009年12月26日 (土)

「眠れない三日月」論(8) 意味の揺らぎとしての「恋愛」

5・3 「恋」、「愛」、そして「恋愛」
・これまでの議論の整理

 以上、「恋」および「愛」についていろいろと論じてきたわけだが、これまでの議論をまとめるなら以下のようになるだろう(表1を参照、クリックすれば画像は拡大します)。

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2009年12月24日 (木)

「眠れない三日月」論(6) 「私の思想」としての恋

5 「恋」から「愛」へ

 今回の作品が前作よりも深みを増しているもう一つの要因として、「恋」から「愛」へのテーマの転換があるように思う。「裏ROCK KIDS(前編)」における舞衣子の弁をもう一度引用するなら、「「好き」と「愛してる」は何が違うのかなって考えるようになって(…)[その違いについて]もっと深いところをこの曲に書きたいなと思っ」たとのこと。この「好き」が「恋」のことを指すのは言うまでもない。

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2009年12月23日 (水)

「眠れない三日月」論(5) 「リアルさ」をめぐって

 以上、新ヴァージョンの歌詞についていろいろと検討してきたわけだが、作品としての「深み」が前作よりもいや増していることは、以上の考察からも明らかであろう。そこで、この「深み」が何によってもたらされているのかという点について、以下、考察していきたいと思う。

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