縦書き表示導入記(5) 顔文字問題
5・1 縦書き時の違和感
最近は(特に携帯の分野で)絵文字が発達したので、顔文字の重要性は以前に比べてやや薄れた感がある。とはいえ筆者のようなパソコン・ユーザーにとっては、顔文字は依然としてブログの表現に彩りを与えるための重要なツールであり続けていた。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近は(特に携帯の分野で)絵文字が発達したので、顔文字の重要性は以前に比べてやや薄れた感がある。とはいえ筆者のようなパソコン・ユーザーにとっては、顔文字は依然としてブログの表現に彩りを与えるための重要なツールであり続けていた。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
このブログでは何度も触れているように、筆者が初めて行ったMARIAのライブは、2007年夏ツアーの大阪公演である(詳細はこちらのレビューを参照)。その時もっとも印象に残ったことの一つが、TATTSUのパワフルなドラミング。お腹にズシズシと響いてくるバスドラのキック音、耳に突き刺さるようなスネアやシンバルのヒッティング音に、ただただ圧倒されたことを覚えている。この年のツアーの模様を収録したライブDVD(MARIA LIVE TOUR WE ARE MARIA 2007~YOU GO!!~)は、ドラムサウンドが前面に出る独特のミキシングが施されているのだが、実際に会場で耳にしたドラム音はこれよりもさらに強烈な感じだった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ラストライブ(当日)のレビューで筆者は、「れいなのパフォーマンスも、「Image」でのスキャット以外はあまり目立たなかった気がする…」と書いた。しかし今回、ディスク5を視聴し直してみて、彼女に対する筆者の印象は大きく覆ることになった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
以上、「恋」および「愛」についていろいろと論じてきたわけだが、これまでの議論をまとめるなら以下のようになるだろう(表1を参照、クリックすれば画像は拡大します)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
では「愛」とは何なのであろうか?日本では、語源である「愛し(かなし)」という概念に、西洋伝来の「Love」の概念が混合して、ややこしいことになっているようだ(Wikipediaの記述を参照)。しかし、ここではあえて「『私たち(という同胞意識)』から出発する思想」と単純化してしまおう。それはこういうことである:
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今回の作品が前作よりも深みを増しているもう一つの要因として、「恋」から「愛」へのテーマの転換があるように思う。「裏ROCK KIDS(前編)」における舞衣子の弁をもう一度引用するなら、「「好き」と「愛してる」は何が違うのかなって考えるようになって(…)[その違いについて]もっと深いところをこの曲に書きたいなと思っ」たとのこと。この「好き」が「恋」のことを指すのは言うまでもない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「会えないと寂しくて毎日そばにい」るほど二人の関係は密になったにもかかわらず、「一緒に過ごす日々」の中で隔たりが育まれてしまったことに、主人公は当惑したに違いない。「なんだか急に怖くなっ」たのも頷ける。しかし、続くサビの前半部の歌詞(「傷ついて傷つけて深くなる愛ほど 言葉より大切な温もりで溢れていく」)において、主人公(そして、作者である舞衣子)は「愛」についてのより深い洞察を獲得するに至る。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
では次に、新しい歌詞の検討に移ることにしよう(CDをお持ちの方は、適宜、歌詞カードに目を通していただきたい)。今回の詞について、作者の舞衣子はこんなことを述べている(以下は、スペシャル・ネット・プログラム「裏 ROCK KIDS(前編)」での彼女の発言を起こしたもの):
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「悲しみ連鎖」という現象が「主観的な誤認の賜(たまもの)」である点については既に述べた(「認識問題としてのカナシミレンサ」を参照)。実際には楽しい出来事やうれしい出来事も生じているはずなのに、ネガティブ・モードにスイッチの入った「認識装置」はそれらの出来事を認識せず、悲しい出来事やつらい出来事ばかりを「経験」として組織化してしまう。こうして「悲しいこと・つらいことばかりが立て続けに起きている」かのように主観的には思えてしまうわけだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「カナシミレンサ」の歌詞が愛華自身の経験に依拠して作られたものであることについてはこれまでも度々述べてきた。しかし、ここで描かれている「大切な存在の喪失とそこからの回復」の物語は、愛華のみならず我々にとっても十分な真実性を備えていると筆者は思っている。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)