『MARIA BOX』雑感(5)れいなの役割についての一考察
1 KP(キーボード&パフォーマンス)という重責
1・1 パフォーマンスの輝き
ラストライブ(当日)のレビューで筆者は、「れいなのパフォーマンスも、「Image」でのスキャット以外はあまり目立たなかった気がする…」と書いた。しかし今回、ディスク5を視聴し直してみて、彼女に対する筆者の印象は大きく覆ることになった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ラストライブ(当日)のレビューで筆者は、「れいなのパフォーマンスも、「Image」でのスキャット以外はあまり目立たなかった気がする…」と書いた。しかし今回、ディスク5を視聴し直してみて、彼女に対する筆者の印象は大きく覆ることになった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
筆者は4月3日のラストライブに実際に参加していたわけだが、その時の印象(これについては、こちらのレビューなどを参照)とディスク5を視聴してみての印象との間に、それほど大きな差は感じられなかった(注)。ただ、MARIAのパフォーマンス面に関して、認識を新たにした点や思いを深めた点などはいくつかある。以下、それらの点について細かく検討していくことにしたい。
(注)当日の印象と大きく異なっていた唯一の点は、2人のヴォーカル。現場ではけっこう音がズレている(声が上ずっている)ように聞こえたのだが、DVDで視聴する限りでは2人の音程はさほど外れてはいなかった。音ズレに酔ってしまった「眠れない三日月」についても(詳細はこちらの記事を参照)、DVDを聞く限りでは全く問題はなく、むしろベスト・パフォーマンスの一つであることが判明した。
この点については先のレビューでもチラッと触れたとおり、会場の音響の方に問題があった(反響が良すぎて、僅かな音のズレが筆者の立ち位置では増幅されて聞こえてしまった)のかもしれない。まあ真相は不明だが(笑)、いずれにせよ今回DVDを視聴することで、二人の歌唱力の評価は(筆者の中では)上方修正されることとなった。一回の現場の印象だけでアーティストのパフォーマンスを判断してはいけない。そう思い知らされた次第である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
新ヴァージョンの詞を書くにあたって、舞衣子が「恋(好き)」と「愛」の違いについて深く掘り下げて考えようとしている点については既に言及した(「2 新ヴァージョンの詞について」の冒頭で引用した舞衣子自身の弁を参照)。そして、これまでの記事で分析してきたように、今回の作品には「愛」という営みについてのかなり深い洞察があちこちで示されている。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
では「愛」とは何なのであろうか?日本では、語源である「愛し(かなし)」という概念に、西洋伝来の「Love」の概念が混合して、ややこしいことになっているようだ(Wikipediaの記述を参照)。しかし、ここではあえて「『私たち(という同胞意識)』から出発する思想」と単純化してしまおう。それはこういうことである:
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今回の作品が前作よりも深みを増しているもう一つの要因として、「恋」から「愛」へのテーマの転換があるように思う。「裏ROCK KIDS(前編)」における舞衣子の弁をもう一度引用するなら、「「好き」と「愛してる」は何が違うのかなって考えるようになって(…)[その違いについて]もっと深いところをこの曲に書きたいなと思っ」たとのこと。この「好き」が「恋」のことを指すのは言うまでもない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「悲しみ連鎖」という現象が「主観的な誤認の賜(たまもの)」である点については既に述べた(「認識問題としてのカナシミレンサ」を参照)。実際には楽しい出来事やうれしい出来事も生じているはずなのに、ネガティブ・モードにスイッチの入った「認識装置」はそれらの出来事を認識せず、悲しい出来事やつらい出来事ばかりを「経験」として組織化してしまう。こうして「悲しいこと・つらいことばかりが立て続けに起きている」かのように主観的には思えてしまうわけだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
この作品が愛華自身の「悲しみ連鎖(および、そこからの回復)」の経験が素になって生まれたことについては既に述べた(「愛華にとっての「カナシミレンサ」」を参照)。
しかしこれと類似した経験は、我々の誰もがしたことのあるものであろう。失恋や死別などで大切な人を失った時、なぜ我々は胸にポッカリと穴が空いたような寂しさや悲しさを覚えるのか。そして、そのような寂しさや悲しさも時とともに癒されていくのは、どのような機序によるのだろうか。以下、社会学的な自己論の立場からこの問いについて検討することにしたい。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
このように「カナシミレンサ」には愛華にとっての「真実」がリアルに描かれているわけであるが、この作品を人々の心に残るものにしている要因はそれだけではあるまい。ここで描かれている「真実」が(愛華のみならず)多くの人々にとっても当てはまるものであるからこそ、「カナシミレンサ」は人々の共感を呼ぶ作品となっているのだと筆者は考えている。以下、この点について2つの理論的観点から検討することにしたい。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
先日、4月29日に日比谷野外音楽堂で行われた「NAONのYAON」のダイジェスト版を視聴する機会があった。そこで実夕は2曲(「Rose」と「シクベ」)歌っているわけだが、これらの曲を視聴して改めてシンガーとしての彼女の実力を再認識させられた。おそらく、大舞台で歌うのはZONEの解散コンサート以来であるにもかかわらず、全く臆することなく自分の歌世界を構築していたからである。
しかし、実力があるからといって必ずしも成功するわけではないのがこの世界の難しいところである。事実、ソロとなってから彼女のCDの売り上げはやや伸び悩んでいる。とりわけ、昼ドラ(『ママの神様』)の主題歌にもなり、メディアにもかなり露出したにもかかわらず、「茜」の売り上げが思ったほど伸びなかったことは、(この曲が自信作であっただけに)本人も所属・配給会社もファンもかなりショックを受けたのではないだろうか。
もちろん、そこには様々な要因が重なっているのだろうが、ここでは「個性的な歌声」と「個性的な人生」いう2つの視点からこの問題について筆者なりに考察することにしたい。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
4thシングル・レビューの第8回目です。今回の記事は、「旅立ちの日に」のMARIAヴァージョンの評価についてです。途中で「儀式」について少し専門的な話が挿入されますが、たとえば、スタジアムでのスポーツ観戦や大ホールでのコンサート等に参加したことのある方は、内容が理解しやすいかと思います。
ちなみに、こうした議論は宗教学や社会学・人類学といった分野ではよく知られているお話しです。管理人はけっしてアヤシイ宗教の関係者などではございませんので(笑)、どうかご安心下さい。
では、本文へどうぞ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)