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2011年11月16日 (水)

NICOLAが知的生産に及ぼす影響について(下)(親指シフト導入記23)

3 変換スタイルが文章の生成に及ぼす影響

 前回の記事で触れた「文章の饒舌化」には、実はもう一つ別のテーマも絡んでいる。「IMEの変換スタイルと文章生成の関連性」というテーマがそれだ。

 以下、この問題について詳細に検討することとしよう。

3・1 2つの変換スタイル

 Japanistでは短い文節ごとに読みを漢字へと変換していくスタイル(文節変換)が推奨されている。この変換スタイルがNICOLA入力と相性がいいことについては、既に言及した(こちらの記事を参照)

 一方、ATOKユーザーなどは、ある程度まとまった量の読みを入力してから一気に変換する「連文節変換」を採用している人が多いだろう。

 そしてローマ字入力ユーザーも、こちらの変換スタイルを採用している人が多いように思われる(ただでさえ多い打鍵数を減らそうとすると、自ずとこうしたスタイルにたどり着くのかもしれない)

 もちろん、どちらのスタイルが優れている/劣っているというわけではない。自分の入力スタイルに合った変換スタイルを選べばいいだけの話である。

 ただ、この2つのスタイルで作成される文章には、微妙な差があるようには感じられる。それはこういうことだ。

3・2 文章の生成過程について

 我々がキーボードで文章を書いていく時、頭の中に既に明確な文字列が存在していて、それをそのままアウトプットしているわけではないことについては、既に述べた(詳しくはこちらを参照)

 すなわち、頭の中に浮かんでいるのは曖昧模糊としたイメージの諸断片に過ぎず、それを文字列という形でモニターに書き出すことによって初めて、脳内の漠然としたイメージ群は明確な意味を持った観念(アイデア)という性質を帯びることとなる。

 そして、それらの形象化されたアイデア(文字列)を見て新たなイメージの断片が脳内に浮かび、それをまたモニターに書き出すことで、アイデア群が次第に連なっていき、文章という形を纏う(まとう)ようになる…

[文章とは]このように次々と生成されていくアイデア群の中から適当なものを取捨選択&加工処理し、(意味が通るよう)試行錯誤しながら繋ぎ合わせていくことでようやく完成する、手作りの織物のようなものなのである(上記の記事からの引用)

 このことを踏まえたうえで、各変換スタイルとそれが文章の生成にもたらす効果について、改めて考えてみることにしよう。

3・3 連文節変換における文章の生成
・脳内でイメージを明確化する必要性

 まず連文節変換では、キリのよいところ(たとえば句読点で切れる部分)まで読みを入力してから変換する、という手法が取られる。

 こうしたスタイルが可能となるためには、(読みを入力する前に)書くべき内容が頭の中である程度明確になっている必要があるだろう。そうでなければ、ひとまとまりの読みを一気に入力できるものではない。

・フィードバック過程のぎこちなさ

 また、(文章を入力した後で)後続するイメージ群が脳内で活性化されるのは、読み(ひらがな)が漢字かな混じり文に変換された後になってからだと考えられる。ひらがなだけのもじれつをみてもいみをはあくすることはなかなかできないからだ。

 このため、脳内のイメージ群と表示される文字列(アイデア群)とのフィードバック過程は、ややぎこちないものとなりそうである。擬音化するなら、ギッコン(脳内でのイメージの生成と加工)→バッタン(文字列の入力と変換)という感じだろうか。

・意味の限定度&脳内処理の比重が高い

 しかも連文節変換の場合、モニターに表示される文字列は複数の文節が接合されることで、意味がかなり限定されてしまう。このため、後続する脳内のイメージ群もそれによって規定される度合いが高くなると考えられる。

 そして、このイメージ群を脳内でさらに明確化させた上で、再び文字入力を行なうこととなるわけであるから、連文節変換というのは脳内での認知処理にかなり負荷がかかるシステムということになりそうだ。

3・4 文節変換における文章の生成
・フィードバックのサイクルが短い

 一方、短い文節ごとに変換していくスタイルは、文章作成にどのような影響を及ぼすのだろうか?

 文節変換の場合、頭に浮かんだイメージ群をとにかく言語化して、すぐに入力・変換する。そして、変換された(漢字かな混じりの)文字列を見て、次のイメージ群が脳内に浮かび、それをまたすぐに入力・変換する…。その短いサイクルが反復されるという形を取る。

 つまり、「脳内でのイメージ喚起→入力・変換→文字列の表示→次のイメージの喚起→…」という一連のプロセスが、より滑らかに進行すると考えられるわけだ。(注)

 (注)このプロセスに習熟すると、脳内でのイメージ処理と外部での入力・変換操作とがシームレスに連動して、あたかも「指がしゃべっている」とか「指で考えている」かのように、書き手には感じられることになるのだろう。

・意味の生成度が高い

 また、変換・表示される文字列が短めであるため、後続するイメージ群がその意味に規定される度合いは小さくなる。このため、入力しているうちに、当初、予期していたのとは異なる内容の文章が生成されてしまうことも珍しいことではない

 このように考えると、「文章や思考の生成度(創発性)」という点では、文節変換の方が優れていると言えそうである。(注)

 (注)連文節変換の場合、ひとまとめに入力できるよう脳内のイメージ群が事前に加工処理されがちであることに加えて、入力後に表示される長めの文字列(の意味)によって後続のイメージ群も強い規定を被るため、予期せぬ文章や思考はなかなか生成されにくいのではないだろうか。

 もちろん、「文章の生成度が高い」ことは良いことばかりではない。文章がやたらと饒舌になって、取り止めがなくなってしまうケースも少なくないからである。だからこそ、文節変換で文章を書く場合は、推敲や編集作業の必要性が増すわけだ。

 以上の内容をまとめたものが、以下の表1である。NICOLA(あるいは文節変換)を他者に勧める時の参考資料にでも使っていただければ幸いである。

Hyo012

4 知的生産全般に与える影響

 最後に、NICOLA入力が知的生産全般に与える影響について考察することにしたい(なお、ここでの議論はあくまで専用キーボードとJapanistとの3点セットで運用するケースを前提としているので、その点はお忘れのなきよう)

4・1 知的生産の3つのプロセス

 知的生産のプロセスは大まかに言って、以下の3つのプロセスから成り立っている。

  1. インプット:関連(しそうな)情報を収集する
  2. スループット:収集した情報を整理&撹拌して、新たな知見を発見する
  3. アウトプット:発見した知見を他者に発信する

 3つのプロセスについて、特に詳しく説明する必要はないだろう。まず(1)のインプットとは、自分が発信したいテーマについての様々な資料(先行文献や当事者の証言、実験データなど)を収集する段階である。

 そのようにして集めたデータを分析して新しい知見を発見したり、事前に立てた仮説を検証したりする段階が(2)のスループット。

 (2)で発見された知見をゼミや学会で発表したり、論文や記事という形で世に出すのが(3)のアウトプットの段階である。

 もちろん、このプロセスは(1)から(3)へと単線的に進行するわけではない

 スループットの段階で足りない情報に気づき情報を集め直したり、ゼミや会議での発表を聞いた他者からのアドバイスを受けて資料収集やデータ分析をし直したり、といった様々なフィードバック過程を伴う漸進的なプロセスである。

Titeki_process

 以上の点について、まずはしっかりおさえておこう。

4・2 知的生産過程にNICOLA入力が及ぼす効果とは?
・インプットとアウトプットへの寄与

 さて、この一連の過程でNICOLAの直接的な寄与が見込まれるのは、まずは(3)のアウトプットの段階であろう。

 ここでの作業の中心は「文章(論文・報告書)を書くこと」であるから、長文を入力しても疲れにくいというNICOLAの特質は、当然、プラスに働くこととなる。

 また(1)のインプットの段階でも、たとえば、「データ(メモや引用も含む)の入力」や「文献リストの作成」といった作業の効率化に、NICOLA(正確にはJapanistの入力予測機能)はかなりの寄与を為すものと考えられる。

・スループットへの寄与?

 しかし、(おそらく知的生産においてもっとも重要だと考えられる)スループットの段階については、NICOLAに過度な期待をすることはできない。

 というのも、収集されたデータや資料を検討(分析&撹拌)しながら、そこに新たな意味や関係性を見出すのは、あくまで人間の脳ミソの仕事だからである。

 さらに言えば、新たなアイデアというのは初期段階ではモヤモヤとしたアモルファスな性質を帯びるため、それを取り出すにはキー入力よりも手書きの方が適している場合が少なくない

・「発見」への援護射撃

 もちろん、新しいアイデアを獲得するうえでNICOLAが全く役に立たないわけではないことは、ここで強調しておかねばならないだろう。

 たとえば、手書きで取り出した脳内のイメージをキー入力で言語化するうちに、それが何を意味しているのか明白になったり、アウトプットの草稿を書いているうちにスループット段階では見出せなかった知見にあらためて気づいたりするケースは、けっして珍しいことではない。

 また前節でも記したように、(NICOLAと適合的な)文節変換で文章を書いていると、思考(=文章)が思わぬ方向へと逸れていくことがある。そうした逸脱が新たな発見のきっかけとなることは、十分にあり得る話であろう。

 つまりNICOLAで入力することには、知的生産における諸々の「発見」を(直接ではないにしても)間接的に促す効果があると考えられるわけである(ただし、Japanistと文節変換の運用は必須)

4・3 暫定的な結論
・信者の言説の危険性

 要は、NICOLA入力を「魔法の杖」であるかのように勘違いしないことである。

 これは親指シフトに限らず、マインドマップやKJ法といった発想支援ツールにも当てはまることだが、その熱狂的な唱道者の中には、あたかもそのツールを使えばアイデアが湯水のように湧き出してくるかのような言説を垂れ流す人が少なくない。

 もちろん本人は善意でやっているのだろうが、こうした言説は初心者や未学者の期待を必要以上に高めて、(その反動で)かえって彼らを幻滅や挫折へと追いやってしまう可能性が高い。

 だからこそ、そうしたツールを本当に普及させたかったら、そのプラスの面だけでなく、マイナス面や限界点も同時に示すべきなのである。

・「魔法の杖」ではなく「歩くための杖」としてのNICOLA

 NICOLAに関して言えば、知的生産活動におけるインプットやアウトプットの効率化の点では、かなりの直接効果を期待し得る。

 しかし、スループット、すなわち、「新たなアイデアの発見」については、過度な期待を求めるべきではないだろう(それをするのはあくまで脳の仕事であるのだから)

 ただし、(インプットとアウトプットの効率化によって)スループットにエネルギーをより注げるようになったり、草稿を書いているうちに新たなアイデアにたどり着いたりといった副次的な効果は(多少は)見込めるのかもしれない。

 そう、「NICOLAはけっして魔法の杖ではないけれども、知的生産というしんどい山道を歩く人が十分にその身を預けられるだけの頑健さを備えた補助杖なのだ」とは言うことができる。そして、「その杖と共に(知的生産の)山道をどこまで登っていけるかは、それを使う人次第である」とも。

 初心者や未学者は(そして、中堅以上の親指シフターも)このことをよく弁えた上で、この入力スタイルに接するべきであろう。

 (以下、次号)

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