縦書き表示導入記(1) まえがき
今回のリニューアルの大きな目玉(?)が「縦書き表示」である。その導入の顛末(=ドタバタ劇)と縦書きにまつわるいくつかの問題について書くことにしたい。
1 縦書きの効用?(あるいは、長い前置き)
ブログを縦書きで表示したいと思うことは、以前からよくあった。日本語の文章のなかには、縦書きでないと様にならないタイプのものが確かに存在するからである。短歌や俳句といった韻文や古文・歴史物語などはその典型だが、(私小説風の)内面吐露型の文章や抽象度の高い批評・評論文なども、横書きよりは縦書きの方がしっくり来る。総じて「思い入れの強い文章」というのは、縦書きの方がフィットするようだ。
まあ、これはあくまで個人的な印象であって、「俳句は横書きの方が好き」という人も今では少なくないのかもしれない(笑)。ただ、テーマや内容によって表示を切り替えることができれば、その記事に対する印象もガラッと変わってくるだろうし、うまくいけば読者のリーダビリティ(読みやすさ)(注1)のアップにつながるかもしれない。(注2)
(注1)厳密には、文章の内容表現や用字・用語を整理統一することで読みやすくすることをリーダビリティ(readability)、視覚的なもの(書体や字詰や行間など)の工夫で読みやすくすることをレジビリティ(legibility)と呼んで、区別するものらしい。(こちらの記事を参照)。ただ本稿では、「読みやすさ一般」の意味で「リーダビリティ」という語を当てておくこととする。
(注2)実際のところ縦書きと横書きのどちらがリーダビリティに優れているのか、寡聞にして筆者は知らない。リーダビリティの定義にもよるが、おそらくは読む人の育った環境(縦書き文化圏か横書き文化圏か)やメディアの種類(デジタル文書かアナログ文書か)、文章のジャンルや内容などによって、その結果は自ずと変わってくるのだろう。
ただ、横書きというのは一覧性や速読性に優れている分、「読み飛ばされ度」が高いような気はする。殊にネット上のテキストについてはその感が強い。そもそもモニター越しに文字を読む作業は目にかなりの負担を与えるため、我々はネット上のテキストを「精読する」ということができない(もし本当に精読しようとするなら、プリントアウトして読むしかないだろう)。かくて多くのテキストは画面上で流し読みされ、あるいは読み飛ばされる運命をたどるわけである。
加えてネット上の文書は更新されることを前提として書かれていることが多い。つまり、「文章」というよりは「情報」としての側面が強いわけだ。当然、読む側も「とりあえず大まかな要点さえ掴めればいい」という態度でテキストに臨むから、ますます「読み飛ばされ度」に拍車がかかることとなる…
一方、書く側としてはこうした趨勢には抗いたい。こちらは一生懸命、脳みそを絞り出すようにして記事を書いているのだから(笑)、もっと腰を落ち着けて読んでほしいと思うわけだ。「縦書き表示」は、書き手サイドのこうしたニーズにもしかしたら応えてくれるのかもしれない。
ある言語医学の研究に拠れば、縦書き文字の認知処理は横書きに比べて遅れる傾向にあるが、これは脳内でより高度で複雑な情報処理が施されているためであるらしい(その処理の具体的な内実については、現時点では不明)。つまり、縦書き表示はリーディングのスピードを遅らせる一方で、テキストのより深い理解や解釈へと読者を向かわせる潜勢力を秘めている…そんな風にも考えられるわけである(間違っていたらゴメンナサイ)。
まあ、こうしたスロー・リーディングの圧力に耐えきれずに、縦書きを読むのを放棄してしまう人も多々出てきたりはするのだろう(笑)。しかし書く側としては、たとえ少数であっても精読してくれる読者の方がうれしいものなのだ。専門家の皆さんにはぜひ、リーダビリティの研究を深めていただいて、「読みやすく、かつ理解も深めやすい」テキスト表現のあり方というものを考案・開発していただきたいところである。
また、書く側は当然、表示の切り替えを念頭に置いて文章を準備せざるをえなくなるわけだが、それによって自身の文体に鋭敏になったり、(縦書きと横書きを書き分けることで)表現の幅が拡がったりといった、副次的な効果も得られることになるかもしれない。つまり、書き手にも読み手にもポジティブな影響を及ぼす可能性を、縦書き表示は秘めているわけである。
とまあいろいろ理屈をこねてきたけど、実際は縦書きについてそこまで深く考えていたわけではない(笑)。「ブログをリニューアルすることだし、時々、気分転換で表示を切り替えることができればいいな」程度の軽い気持ちで、縦書きの導入に着手しただけの話なのである(ここまでが枕。あしひきの山鳥の尾のしだり尾のように長々しいな(苦笑))。
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