「眠れない三日月」論(9) 「恋」のダークサイド
6 再び「眠れない三日月」の詞について
さて、これまで長々と「恋」や「愛」について論じてきたのは、「眠れない三日月」の歌詞を評価するための「視点」を獲得するためであった。我々がふだんごっちゃにしがちな「恋」と「愛」をこのように明確に区分する「視点」を導入することで、「恋愛」に伴う様々な事柄がいろいろと見えやすくなったのではないかと思う。
もちろん、この視点が絶対的に正しいなどと言うつもりはない。恋愛についてはそれこそ百人百様の視点があると思われるから。だが、我々が社会的存在である以上、恋愛に関する個人のものの見方も、社会・文化的な言説の影響を被ることは避けられない。実際、筆者のこれまでの議論も自身の経験だけでなく、様々な他者たちの言説の影響を色濃く受けて書かれている(注)。
(注)直接的には小谷野敦の『「男の恋」の文学史』の影響が大きいが、他にも哲学者のジンメルの議論や、さだまさしの『恋愛症候群』、野島伸司の『世紀末の詩』といった作品の影響を色濃く受けてこの記事が書かれていることを、ここで告白しておこう。
したがって当記事は、「筆者の個性」というバイアスを受けてはいるものの、基本的には現代社会に流通している恋愛言説の一ヴァージョンと見なすことができ、その意味である種の社会的な妥当性(=もっともらしさ)は確保されているのではないかと思う(まあ要するに、そんなに間違った議論じゃないでしょ、ということ(笑))。
6・1 旧ヴァージョンの歌詞について
・失恋というテーマ
まあ筆者の恋愛談義に対する弁明はこれくらいにして、再び「眠れない三日月」に話を戻すことにしよう。まず旧ヴァージョンの詞についてだが、この作品が「恋人との別れ」について詠ったものであることは明白である(「1 旧ヴァージョンの歌詞」を参照)。つまり、作品の重点は「愛」よりも「(失われた)恋」に置かれているわけだ。
実際、詞の内容をたどると、筆者による「恋」の定義(表1を参照)とかなり符合していることが分かる。まずこの物語で焦点となっているのは、主人公の心情(=内面)である。失恋直後という設定もあって、「生身の他者(あなた)」はここには登場しない。自分のことを愛してくれていた(生身の)他者を失うことで、主人公の自己システムは深刻な動揺を来したことだろう(注)。
(注)「重要な他者」の喪失に伴う自己の変容については、こちらの記事などを参照のこと。
こうした心的動揺(悲しみや寂しさ)を緩和させるために、彼女は愛する人や彼との楽しかった日々の記憶(イメージ)を呼び起こしては、それを反芻する。しかし、このように脳内で自らが産出した他者イメージと戯れるだけでは、生身の他者との接触がもたらすあの「温もり」を再現することは(究極的には)できない。かくて主人公は癒しきれぬ喪失感を抱えながら、「寂しさも消えてゆく」日を待つことになる…。
以上の考察からも、旧作が基本的には「恋」についての歌であることがお分かりいただけたと思う。しかし筆者がこの作品に飽き足らないものを感じたのは、なにも「愛」について詠われていないからなのではない。むしろ「恋」の歌に徹しきれていないことに課題があるのだ。それはこういうことである。
・恋のダークサイド
「恋」とは必ずしも甘美で楽しいものとは限らない。自分の想いが報われないことに対する苦悩や嘆き、自分の想いを受け入れてくれない相手への恨みや憎悪といったダークな要素も、そこには必ず含まれている。
そして、「理想化された他者イメージを脳内で産出しては消費する」という自閉的なコミュニケーションが過熱化した結果、妄想が肥大化し、時にストーカー殺人のような反社会的な行動となって噴出することも珍しいことではない。
その意味で「恋」とは(小谷野敦も言うように)ある種の「狂気」を伴った危険な情熱であると言えるだろう。しかし、こうしたダークな側面があるからこそ、「恋」の切なさは喩えようもなく甘美なものとなり得るわけだし、自分の想いが叶った時の喜びもまた格別なものとなるわけだ。
・旧ヴァージョンに欠けていたもの
「恋」について突き詰めるならば、当然、上記のようなダークな心性についても踏み込まざるを得なくなるだろう。然るに旧ヴァージョンの歌詞からは、こうしたダークな側面はほとんどうかがえない。別れに至るまでの葛藤は「すれ違ってしまう」の一言で片付けられているし、別れた相手に対する未練こそうかがえるものの、恨みつらみや憎悪といったネガティブな感情は一切オミットされている。
こうして旧ヴァージョンの詞は、主人公のせつない想いや健気さが強調された麗しきファンタジーになってはいるものの、「恋」のダークサイドについての表現を欠く分、作品としての深み(=陰影)が削がれる結果となっている。(注)
(注)こうした「恋」のダークサイドの描写に長けているのがTATTSUだ。1stアルバムに収録された「watch me」では、彼氏に二股(三股?)をかけられた女の子のほの暗い情念がリアルに描かれていたし(こちらの記事を参照)、2ndアルバム収録の「線香花火」でも、自分から離れていこうとしている相手に対する主人公の狂気じみた執着が巧みに表現されていた。なお、この作品については後日、詳細にレビューすることにしたい。
もちろん、この詞を書いた当時、舞衣子は現実の恋愛経験も創作経験も著しく不足していただろうから(注)、作品がある種の「ファンタジー」になってしまったのも致し方のないところなのかもしれない。そして、そうした状況が分かる現在の視点からすれば、旧作は彼女が精一杯背伸びをして「恋」について詠っている「微笑ましい作品」として捉えることもできよう。
(注)この点については、「4 「リアルさ」の背景」を参照。
しかし、それから4年。現実経験も創作経験もそれなりに積んだであろう彼女の作品は、その深みを一段増すこととなった。それが新ヴァージョンの「眠れない三日月」である。
(以下、次号)
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