「眠れない三日月」論(8) 意味の揺らぎとしての「恋愛」
5・3 「恋」、「愛」、そして「恋愛」
・これまでの議論の整理
以上、「恋」および「愛」についていろいろと論じてきたわけだが、これまでの議論をまとめるなら以下のようになるだろう(表1を参照、クリックすれば画像は拡大します)。
もちろん、以下の「恋」と「愛」の定義は、「恋愛」という現象に伴う対照的な要素を抽出して二分法的なカテゴリーへと集約したある種の仮構物(社会学ではこれを「理念型」と言ったりする)であって、現実の「恋愛」はこれらの要素が様々に入り混じった複雑な形態を取ることになる。
・個人のレベルにおける「恋・愛」
まず「個人のレベル」に分析の焦点を合わせてみよう。我々は「誰かに愛されたい」という自己へと向かう欲求(「恋」)と、「誰かを愛したい」という他者へと向かう欲求(「愛」)という、二つの相反するベクトルに引き裂かれながらも、「私」という一個のまとまったシステムを維持している。
もちろん、「恋」のベクトルが強い人もいれば、「愛」が強い人もいることだろう。しかし、二つのベクトルの力関係は常に一定なわけではない。他者との出会いによって、この力関係は容易に反転しうる。(注)
(注)結婚するまでは相手に献身的だった男性が、いざ夫婦生活を始めると途端に妻に甘え出すというのは良く見られるケースであるし、逆に、それまで多彩な男性遍歴をたどってきた恋多き女性が、出産すると愛深き母親へと変貌するケースも珍しいことではないだろう。
また「恋」と「愛」のどちらか一方のベクトルしか存在しないということも、原理的にはありえない。例えば、深く愛しているステディが存在するにもかかわらず、街でふと見かけた別の他者にどうしようもなく心を奪われてしまうことがあるのは、何もキューピットの気まぐれのせいなのではなく、我々が常にそうした双方のベクトルを内包して生きているからなのである。
・関係性のレベルにおける「恋・愛」
次に「関係性のレベル」に焦点を合わせてみよう。上記のように相反するベクトルを内包した個人どうしが関わりを持つことで「恋愛」という関係がスタートするわけであるが、この二人の関係性もまた二つの対照的なベクトルに晒されていることに注意されたい。相手との一体化へ向かおうとするベクトルと、「私(個人)」であることを維持しようとするベクトルがそれである。(注)
(注)セックスなどは前者の結合欲求が具現化したものだが、(そうした行為の後にしばしば感じる)相手に対する鬱陶しさの感情などは後者のベクトルによって引き起こされているのだろう。
また、二人の関係性は時間と共に絶えず変容していく。例えば相思相愛に見えるカップルであっても、両者が同程度に相手のことを愛しているようなケースはおそらく稀で、「どちらか一方が相手のことをより深く愛している」という非対称な関係が形成されているケース(例えば、『愛情7割恋情3割の女性』と『愛情3割恋情7割の男性』の組み合わせ)の方がはるかに多いことだろう。
そして時の流れと共に、こうした関係の非対称性に嫌気が差して別れてしまうケースや、非対称性の配分が逆転するケース、恋愛から夫婦愛・家族愛へと「愛」の性質が変わっていくケースなど、様々な変化が生じるものと思われる。
・恒常的に不安定なシステムとしての「恋愛」
このように考えると、「恋愛」という営みは個人レベルでも関係レベルでも相反するベクトルに晒された、恒常的に不安定な現象であることが明らかになる。「恋」と「愛」という対照的なベクトルに引き裂かれながらも、「私(自己)」という危ういシステムを何とか維持している二人の個人が出会い、「結合」と「離反」というこれまた相反する関係性のベクトルに晒されながらも、お互いに何とか危ういバランスを保つことで「恋愛」関係は維持されているのだから…。
恋愛につきもののこうした不安定性は、関与する個々人に様々な心理的負荷(不安や疑念、緊張、等々)をかけることになる。それに耐えきれず、関係性を解消してしまうカップルも少なくない。(注)
(注)おそらく近代の「恋愛結婚」という制度は、恋愛する人々が直面するこうした不安定性やそれに伴う心理的負担を軽減するために編み出された社会的装置なのだろう。既婚者に対する恋愛が法的にも日常的にも禁止されることで、「(カップル関係への)第三者の闖入」という不確定性の要因が除去されることになるわけだし、時に社会のタブーを突き破る危険性も孕んだ「恋」情を、より穏やかで向社会的な「家族愛」へと転換させることが(恋愛結婚においては)明に暗に目指されているからである。
・不安定ゆえの魅力
しかし恋愛に伴うこうした不安定性は、当事者達にネガティブな影響を及ぶすだけではない。それは同時に、スリルや高揚感といったポジティブな感情を引き起こし、人々に「生きている喜び」を与えることにもなる。また、(関係性のゆらぎに伴う)心的負担を解消しようとお互いが協力し合うことで、二人の関係性がより深まるというケースも少なくないだろう。
このように恋愛という営みには絶えず「両義性」がつきまとう。相反する要素が同時に存在しながら、それが常に反転していく可能性を秘めているのだ。「無償の愛」は容易に「ナルシズム」へと転化するし、相手の「愛」を獲得した瞬間、「恋」心は冷めていく。不安定な関係は個人にスリルを与え、安定した関係には退屈が忍び寄る、等々。このような絶え間ない「意味の反転」こそが「恋愛」の魅力の本源であり、人々を魅了して止まないものの正体なのではあるまいか?
・意味の揺らぎとしての恋愛
まとめよう。「恋愛」とは単に「恋」と「愛」の間にあるのではない。「恋」が「愛」に転じ、「愛」が「恋」に転じるというかたちで、「メビウスの輪」のように反転する「意味のゆらぎ」こそが恋愛の本質なのだ。
そしてこうした「ゆらぎ」は、(「恋」と「愛」という相反するベクトルに晒されることで)本来的に不安定な自己システムを何とか維持している個人どうしが、(「離反」と「結合」というこれまた相反するベクトルに晒されて)絶えず動揺する関係バランスを何とか維持している時に、おそらく最も活性化する。
高所で綱渡りをしているピエロがロープの上で危ういバランスを保っている場面を思い浮かべてみよう。彼の体勢がゆらいでバランスが崩れそうになるその瞬間、最高のスリルと興奮が観客にもピエロ自身にももたらされる。これと同じことが「恋愛のゆらぎ」にも当てはまるわけだ。
もちろん、誰もが優秀なピエロになれるわけではない。ロープから落下して酷い傷を負ったり、高いところに登る勇気がなくて(恋愛という)綱渡りを断念し、地に足をつけて歩くことを選んだという人も少なくないだろう。
だが、一度ロープの上で味わったあのゆらぎの興奮はなかなか忘れられるものではない。また、こうした経験のない人にとっては、地上から見上げるピエロの姿はきわめて魅力的に映ることだろう。
かくして我々は「恋愛」という綱渡りに魅了され続けることになる。たとえそれが危険と隣り合わせであったとしても、そうした冒険へと駆り立てる衝動が我々の中から失われることはないのだ。
(以下、次号)
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント