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2009年12月29日 (火)

「眠れない三日月」論(11) 詞の解釈をめぐる諸問題

 以上、「眠れない三日月」の歌詞についてあれこれ検討(妄想?)してきた。歌詞について筆者の言いたかったことはほとんど書きつくした気がするので、最後に「詞を解釈するということ」について、何点か補足しておくことにしたい。

7 「分かりやすさ」と解釈の多様性

7・1 「物語の設定」と「分かりやすさ」
・分かりやすい旧ヴァージョン

 まず、これまでの議論は基本的に「新ヴァージョンの詞の方が深みが増している」という筆者の見立ての下に展開されてきた。しかし、これは「旧ヴァージョンが質的に劣っている」ということと同義ではない。むしろ前作の方が優れている側面もある。

 例えば、「分かりやすさ」について。旧ヴァージョンの詞は、恋人と別れた直後(Time)、自宅にて(Place)、別れた相手や終わった恋について一人思いをめぐらす(Opportunity)、というように、主人公の置かれているシチュエーション(TPO)が非常に明確であった。このように物語の設定が明確であることによって、「これは失恋ソングだ」ということが読者/リスナーにすぐに伝わることになる。

・新ヴァージョンの曖昧の曖昧さ

 これに対して新ヴァージョンの詞は、そのあたりの設定がどうも曖昧だ。相手との関係は現在も継続中のようだが、以前のように毎日そばにいる関係ではなくなってしまったという(1番のサビの後半部)。2番のAメロ部でも、二人の距離が拡がっていった様子が描かれているし、サビにおける欠けていく三日月の姿は「関係の終焉」を暗示しているように読める。

 ではこの曲が「別れの歌」かというと、あながちそうとも言い切れない。少なくとも主人公の「あなた」に対する想いは少しも変わっていないし(ラストの詞を参照)、「物語はずっと続くの」という詩句からは、「二人の関係をこれからも続けていくのだ」という主人公の意志や願望がうかがえたりする。

 このように物語の設定が曖昧であることによって新作は、「これは何についての歌なのか」が読者(リスナー)に伝わり難くなってしまっている。実際、舞衣子自身の発言(竹内美保さんのインタビュー、及び、「裏 Rock Kids」での彼女の弁を参照)を読んで初めて、この作品が「愛」(正確には、「これから忘れてはいけない思い、ずっと大切にしていきたい思い」)についての歌だと分かったファンも少なくないのではないか?

 したがって「分かりやすさ」を作品の評価基準にするなら、新作は旧作よりも劣っていると言わざるを得ないだろう。

7・2 「分かりやすさ」と「解釈の多様性」
・「曖昧さ」のもたらすメリット

 だが、「詩」というものを評価する上で求められる基準は、なにも「分かりやすさ」だけではない。例えば、「いかに読者のイマジネーションを豊かに喚起するか」ということの方が、詩においては重視されたりする。

 そしてこの評価基準に立つならば、「設定の曖昧さ」という新作の短所は、途端に長所に転じることになる。すなわち、設定がぼやかされることによって、作品の多様な解釈が読者に委ねられることになるからだ。(注)

 (注)例えば、主人公の置かれているシチュエーションを「失恋の直前」と見なすこともできれば、「一時的な冷却期間中」と見なすこともできる。そして前作同様、「失恋直後」という設定にすることだって可能だ(失恋した主人公が、これまでの経緯を事細かに反芻している、という設定)。
 そして設定が変われば、詩句から導き出される意味も当然変わってくる。例えば、サビの「それでいいの 物語はずっと続くの」というフレーズ。「一時冷却中」という設定の場合、この部分は「二人の関係を立て直そう」という主人公の決意表明として受け取ることができるだろう。
 一方、「失恋直前」という設定にした場合、このフレーズは「二人の物語がずっと続いて欲しい」という主人公の切なる願望を表していると解釈することができる。そして、設定が「失恋直後」であるとすれば、「(私の)物語はずっと続く」という超越的な視点を取ることで、主人公は失恋に伴う心の傷を中和しようとしているのだ、と見なすことができよう。

・「分かりやすさ」の陥穽

 逆に言えば、前作はその「分かりやすさ」によって、オーディエンスが自由に想像力を働かせる余地を狭めてしまっているとも言うことができる。「これは失恋ソングだ」とすぐに分かってしまい、後はそこに描かれている世界をベタに受け取るしかないわけだから。その意味で旧ヴァージョンの詞は完成度(まとまり具合)は高いが、そのまとまり故に「(読者/聞き手に対して)閉じられた」作品であると見なすことができよう。

 これに対して新ヴァージョンは作品としての「詰め」は甘いが、「オーディエンスにはより開かれた作品」と言うことができる。設定が曖昧であることによって人々は様々なシチュエーションを設定し、自分なりの物語世界を想像=創造することができるのだから。

7・3 「視点」が変われば「評価」も変わる
・消費者の視点

 このように書くと、結局、旧ヴァージョンの詞を低く評価しているようだが、そうではない。繰り返すが、どちらの作品にも一長一短があるということだ。

 現代の大量消費社会においては、消費者はとかく「すぐに分かるもの」「親しみやすいもの」を求めがちである。ポピュラー・ミュージック(大衆音楽)もその例外ではないだろう。したがって、大多数の消費者目線に立つなら、(たとえ深みには欠けるとしても)分かりやすい前作の方が優れているということになる。

・鑑賞者の視点

 しかし同時に、そのような「親しみやすい」作品(おそらくその大半が、事前に市場調査された消費者の嗜好に沿う形で制作されたものだろう)に飽き足らない思いをしている人々も、少なからず存在するものと思われる。

 このような少しうるさ型の消費者(以後、一般的な消費者との混同を避けるために、「鑑賞者」というカテゴリーを使用することにする)にとっては、分かりやすい作品よりはむしろ、「難解な作品」や「歯ごたえのある作品」の方が価値があることになるかもしれない(注)。

 (注)「鑑賞者」とは、具体的には「ディレッタント」や「おたく」のことを指す。ただ、これらのカテゴリー(特に「おたく」)には侮蔑的なイメージが染みついてしまっているので、あえて「鑑賞者」というカテゴリーを採用することにした。

 「鑑賞者」という人種は、他者の作品をただ受動的に享受(=消費)することに喜びを見出しているのではない。その作品に主体的に働きかけ(具体的には、作者の隠された意図について想像したり、作品が生まれた時代背景について思いを馳せたり、他の作品との関係性について推測したり、等々)、そこから自分なりの「意味」や「価値」を見出す…。これら一連のプロセスこそが、「鑑賞者」にとっての喜びの源泉なのである。

 この立場からすれば、「分かりやすい作品」よりも「難解な作品」の方が都合がよい。なぜなら、後者は「深読み」や「裏読み」の余地を「鑑賞者」にたっぷり残してくれるのだから。そして「眠れない三日月」について言えば、いろいろとツッコミ所のある新作の方がより「鑑賞者」のお眼鏡には適う、ということになるだろう。

・ニヒリズムを越えて

 このように何を評価基準にするかによって、作品に対する評価も変わってくる。しかしこのことは、「あらゆる評価は相対的なものだ」というニヒリズム(冷笑主義)を意味しているわけではない。上でも書いたように、作品に対する視点(判断基準)が変われば、その作品に対する評価も変わってくる。そして、これらの評価が互いに矛盾したり食い違ったりすることも多々あるだろう。

 しかし、これらの様々な評価を総合することによって、その作品の「真実の姿」というものが次第に浮かび上がって来る。少なくとも、それに接近することができる。そう筆者は考えている。

 そしてこのブログのレビューも、少しでも多様な視点から作品にアプローチし、その作品の真実性に迫ろうという筆者なりの試みであることを、最後に付言しておきたい。

 (以下、次号)

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