「眠れない三日月」論(6) 「私の思想」としての恋
5 「恋」から「愛」へ
今回の作品が前作よりも深みを増しているもう一つの要因として、「恋」から「愛」へのテーマの転換があるように思う。「裏ROCK KIDS(前編)」における舞衣子の弁をもう一度引用するなら、「「好き」と「愛してる」は何が違うのかなって考えるようになって(…)[その違いについて]もっと深いところをこの曲に書きたいなと思っ」たとのこと。この「好き」が「恋」のことを指すのは言うまでもない。
それでは、そもそも「恋」とは何なのだろう?そして「愛」とは?この問いについては、これまで無数の人々(その中には偉大な思想家や宗教家も数多く含まれている)が膨大な量の議論を積み重ねてきた。しかし、それらをフォローする能力も気力も現在の筆者には残されていない。
そこで、この問題について文学者の立場から鋭い考察を行っている小谷野敦の議論を取っ掛かりに、「恋/愛」についての筆者なりの定義を示すことでお茶を濁したいと思う。
5・1 「私の思想」としての恋
・小谷野の枠組
小谷野は『「男の恋」の文学史』(朝日選書)において、多くの恋愛論が「恋」と「愛」の区別を曖昧にしていることを批判し、以下のような見取り図を提示している(同書、33頁):
・個人の思想 ――実りようのない思い――恋
・共同体の思想――遊里の恋――色
――夫婦、あるいは相愛の男女――愛
――厳格道徳、子孫繁栄のためのセックス
そして彼は、これまでともすれば「女々しい」として見落とされがちだった男性サイドの「恋」(という感情)について、日本の文学作品を紐解きながらその系譜を丹念に辿っていくわけだが、その内容についてはここでは深く立ち入らない。ただし、「恋」を個人の思想、「愛」を共同体の思想であるとする彼の指摘は非常に重要なので、以下、この区分を筆者なりに敷延してみたいと思う。
・「恋」は相手をモノ化する?
まず「恋」についてだが、この言葉はもともとは「乞ふ」(=求める)という動詞が転じたものだと言われている。すなわち英語で言えば、「私は~を乞ふ(=恋ふ)」という「S(主語)V(動詞)O(目的語)」構文の形を取るわけだ。しかし、「恋」がこのように「私(主体)」から出発する思想である限り、恋の相手はたとえ生身の人間であっても、「私」の欲求の目的=対象(object)として「モノ化」されてしまう危険性は避けられない。
この「モノ化」には、相手を自らの欲求充足のための手段と見なすようなケースだけでなく、相手を極端に理想化して崇め奉るようなケースも含まれることに注意されたい。両者とも相手の主体性や固有性を認めていないという点で、同じ穴の狢だからだ。そして、「片想い(片恋)」や恋愛の初期段階において、我々が「生身の他者」ではなく「理想化された他者(イメージ)」に恋している可能性が高いことについては既に言及した(「3・1 接近がもたらす隔たり」を参照)。
・「片想い」というナルシズム
こうした「片想い」の経験をさらに分析してみよう。我々が片想いをしている最中にしばしば妄想するのは、「相手が自分のことを好きと言っている場面」である。ここで注意しなければならないのは、(理想化されたイメージである)相手に告白されている当の「自分」も、「理想化されたイメージ」に他ならないということだ。きっとその妄想世界で麗しき相手に告白されている「私」は、現実の冴えない「私」とは全く違う麗しき存在であることだろう。
このように考えていくと、「恋(片想い)」において「私(主体)」が本当に求めているのは(私の外部にいる)「生身の他者」などではなく、「私」によって脳内で理想化された「他者イメージ」であり、さらに言えば、「(そのように理想化された相手に愛されている)理想化された自分」であるということになる。つまり「恋」という現象の根底には、このような「自分自身に対する愛」すなわち「ナルシズム」というものが常に潜んでいると考えられるわけだ。
こうした「ナルシズム」に双方が呪縛されている限り、たとえ表面上は「相思相愛」の関係になったように見えても、当人同士はけっして満たされることはないだろう。なにしろ、本人が一番欲しているのは「生身の相手」ではなく、「(理想化された相手に愛されている)理想化された自分」なのだから。お互いに「愛される」ことを求めるだけでは、けっして自らが愛されることはない。その結果、相手(そして自分)に対する不満だけが募り、結果、別れてしまうというカップルも少なくないものと思われる。
この袋小路から脱するには、「生身の相手(そして自分)を愛する」という能動的な営みが不可欠になってくるだろう。
(以下、次号)
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