「眠れない三日月」論(10) 「私たち」という共同体への祈り
6・2 新ヴァージョンの歌詞の再検討
新ヴァージョンの詞を書くにあたって、舞衣子が「恋(好き)」と「愛」の違いについて深く掘り下げて考えようとしている点については既に言及した(「2 新ヴァージョンの詞について」の冒頭で引用した舞衣子自身の弁を参照)。そして、これまでの記事で分析してきたように、今回の作品には「愛」という営みについてのかなり深い洞察があちこちで示されている。
ここで、筆者による「愛」の定義(「表1」参照)に照らし合わせながら、新ヴァージョンの歌詞をもう一度整理してみよう。
・「私とあなた」の物語
まず物語の主な焦点は、主人公と彼女が愛している「あなた」との関係性に当てられている。もちろん主人公の心情(内面)についても描かれてはいるが、前作でうかがえたようなナルシズムの気配(「「失恋に涙している私」って健気」と涙する私、という形で自分自身へと回帰していく情動の流れ)はここではあまり感じられない。
(自分のことを愛してくれている)相手を失うことへの「恐れ」や「不安」は表明されているものの、主人公の志向性はすぐに「あなた」そして「二人の関係性」へと向かっている。その意味で今回の作品は、「私」ではなく「私たち(私とあなた)」の物語であると言えるだろう。
・「生身の他者」とのかかわり
また前作との最大の違いとして、主人公の愛する「あなた」が生身の身体を携えた具体的な存在として登場する点が挙げられる。二人の身体的な接触については1番で赤裸々に(ちょっと大袈裟か(笑))描かれているし、生身の人間同士が関わりを持つことで必然的に生じる葛藤や、そうしたぶつかり合いが互いの関係性を深める逆説的な側面についても、2番でしっかりと触れられている。
このように前作には欠けていた「生々しさ」が加わることで、今回の作品が一段深みを増すことになった点については、これまでも再三言及してきた(「2・2 リアリティーの深まり」および「3 「関係性」への繊細な目配り」を参照)。
・強くなった主人公?
しかし、今回の歌詞においてもう一点「深み」を増しているファクターがある。それは主人公の人間性だ。前作の主人公は「失恋直後」というシチュエーションもあって、健気ではあるがどこか受動的で弱々しいイメージがあった。
それに対して今回の主人公はもっと能動的で、どこか芯の強いところを感じさせる。そのことがよく現れているのが、「それでいいの 物語はずっと続くの」というサビのフレーズだ。ここには、今後ふたりの間に何が起きようとも、それをしっかり受け止めて前向きに生きていこうという、主人公の決意や覚悟のようなものがうかがえる。
彼女がこのような奥深い心境に到達した背景には、「誰かを愛する」という能動的な営みがもつ喜びを経験したことが大きいように思う。それはこういうことだ。
・愛と見返り
恋愛の初期段階においては、「相手から愛される」という見返りを期待して他者に働きかけるという、利己的な要素の強いコミュニケーションが主流であるように思われる。
しかし双方の関係が深まるに連れて、「相手のために何かをしてあげること」それ自体に価値を見出す人も出てくる。自分が愛されることよりも、相手や二人の世界のために自らが貢献することに喜びを見出すようになっていくのだ。おそらくその究極の形が、相手に見返りを求めない「無償の愛」と呼ばれるものなのだろう。(注)
(注)西欧における「無償の愛」(ギリシア語で言うところの「アガペー」)とは本来キリスト教の神学概念で、「神の人間に対する愛」を指していた。そして、「(神が何の見返りがなくても人間を愛しているように)汝の隣人を愛せよ」と説いたのがイエスであり、このような普遍的な人間愛を通じて人は「神の子」となり得るのだというのがキリスト教の教えであった。詳しくはこちらを参照のこと。
もちろん人間の利他的な行動の背後には、利己的な欲求(「相手から愛されたい」)や打算(「周囲の人々から評価されたい」)、ナルシズム(「相手のために尽くしている私ってステキ」)といったものが常につきまとう。それは仕方のないことだ。人間は神様ではないのだから。
しかしながら、個人の利己的な欲求を充足させることを主眼とした他者への働きかけと、相手の幸福をより強く志向する他者への働きかけとでは、得られる喜びの深度が違うことも、やはり否定しがたい事実であろう。
・見返りを求める愛と求めない愛
前者の場合、自分の期待するのと同等かそれ以上の見返り(笑顔や感謝の言葉、等々)を相手が与えてくれなければ、不満や失望が残ることになる。よしんばそうした見返りが得られたとしても、次からはそれ以上のものを相手に求めるのが人間の常であるから、結局は自らの欲求を満たせなくなり、相手との関係性もそれ以上深まらずに終わってしまうというケースが少なくない。
このように、狭い損得勘定(自分の働きかけと同等かそれ以上のものを相手に求める心性)に囚われている限り、他者との関係性からその人が得られる喜びは浅薄なものに留まることだろう。
これに対して後者の場合、相手の幸福のために働きかけることが即、自らの幸せに繋がるわけであるから、相手からの見返りの多寡は問題ではなくなる。例えば、愛する人の穏やかな寝顔を目にしただけで、しみじみと温かい気持ちになったことのある人は少なくないだろう。
このとき相手は自分のために何か特別なことをしてくれているわけではない(寝ているだけなのだから)。それなのに、その人の幸せそうな寝顔を見ているだけでこちらも満ち足りた気分になれるのは、「相手の幸せ」が即「私の幸せ」へと連なる回路が二人の間にできあがっているからだと考えられる。
・「愛」という営みの宗教性
もっと詳しく説明しよう。ある人と深く愛し合うということは、「私(自己)」と「あなた(他者)」を分け隔つ壁が崩れて、「私たち」というより大きなまとまり(共同体)が形成されることである。自己と他者の区分がここでは曖昧になるわけであるから、「相手の幸せ」が即「私(たち)の幸せ」へと連動するようになるわけだ。また、「私たち」という大いなる存在へと自己が包絡されることで、「私」という狭い自己意識に囚われている時には得られなかった深い安らぎや心強さを感じることができるようになる。
したがって、ある人を深く愛するという能動的な営みは、単に他者の幸せのために尽くすということに留まらない。それは「私たち」という大いなる存在(共同体)のために働きかけ、そこから深い恩恵(共同体がもたらす集合的なエネルギー)を受け取る、ある種の宗教儀礼にも通じる互恵的な営みでもあるのだ(注)。愛する人に対して我々が抱く気持ち(「守ってあげたい」「大切にしたい」)がしばしば「敬虔さ」という宗教的な色彩を帯びるのは、こうした理由によるのだろう。
(注)宗教儀礼と集合的なエネルギーについては、こちらの記事を参照のこと。
・「私たち」という共同体への祈り
話を「眠れない三日月」に戻す。この曲(新作)の主人公もまた、「あなた」を深く愛するという能動的な営みによって「二人の共同体」を形成・維持し、そこから深い恩恵(喜びや安らぎ)を得てきたと考えられる。筆者が彼女に感じた「芯の強さ」はおそらく、この共同体を自らが主体的に守ってきたのだという「矜持(きょうじ)」に求められるのだろう。
その愛の共同体も、現在、二人の関係性が揺らぐことで存亡の危機に瀕しているかのように見える。にもかかわらず主人公が「それでいいの」とつぶやくのは、「(二人の)物語はずっと続く」と信じているからであり、また、たとえ二人が別れるようなことになっても、「あなたが幸せであってくれさえすればそれでいい」という深い境地に彼女が到達しているからだろう。
かくて主人公は最後に再び、「あなた」そして「二人の共同体」のために祈りを捧げることになる:「愛してるよ 変わらぬ想いを あなたへ」(注)
(注)ちなみに、本記事を書くにあたって参照にしたさだまさしの「恋愛症候群」のラストも、これと似た内容の歌詞となっている。
「相手に求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋
与え続けてゆくものが愛 変わらぬ愛 だから
ありったけの思いをあなたに投げ続けられたら
それだけでいい」
(以下、次号)
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