「眠れない三日月」論(5) 「リアルさ」をめぐって
以上、新ヴァージョンの歌詞についていろいろと検討してきたわけだが、作品としての「深み」が前作よりもいや増していることは、以上の考察からも明らかであろう。そこで、この「深み」が何によってもたらされているのかという点について、以下、考察していきたいと思う。
4 「リアルさ」の背景
4・1 実体験の裏打ち?
今回の「眠れない三日月」を書くにあたって、舞衣子が自らの恋愛経験を参照したことはまず間違いないだろう。というのも、2番のような「恋愛関係の機微」をついた歌詞など、当事者としての経験がなければそうそう書けるものではないからだ。おそらくその大部分が彼女の創作と思しき旧ヴァージョンの歌詞と比べて、今回の作品がその「深み」を増しているのは、こうした「実体験の持つ重み」があってのことなのだろう。(注)
(注)旧ヴァージョンの歌詞を書いた時点(MARIA結成直後)では、舞衣子が深い恋愛を経験していた可能性はきわめて低かったと考えられる。学業と芸能活動の両立やら(ZONE時代)、メジャー・デビューへ向けての準備やら(MARIA時代)で、恋愛にかまけている余裕など当時ほとんどなかったはずだからだ(ファンの希望的観測かもしれないけど…(笑)。
自身の恋愛経験にあまり依拠できない以上、頭の中でストーリーを創出するしかないわけだが、そこそこに完成度の高い作品を仕上げているのだから、舞衣子の創作力はなかなかのものであると言える。ただ、それでも前作にどこか物足りなさを感じてしまうのは、それが実体験の持つ「重み」(リアリティや生々しさ)を欠いているからであり、また、それをカバーするだけの表現力が作者になかったからなのであろう。
いずれにせよ、この時点では舞衣子はまだまだ経験不足(実体験という意味でも、創作経験という意味でも)だったわけである。
舞衣子ももう23歳。前作から約4年の月日が経過するあいだに、彼女が大人の恋愛をしていたとしても、ちっとも不思議ではない。実際、今回の歌詞が前作よりもはるかに「リアルな」ものになっているのは、そこに彼女自身の恋愛経験がしっかりと刻印されているからだと思われる。ただし、舞衣子の歌詞のリアルさと、例えばTATTSUの歌詞のそれとでは、その性質がやや異なっていることには、注意を喚起しておかねばなるまい。
4・2 リアルな表現とは
・TATTSUのケース
まずTATTSUの歌詞の「リアルさ」についてだが、表現や内容の直接性・具体性に大きな特徴がある。例えば「線香花火」の2番Aメロの詞(「ベッドの中のぬくもり 2つ並んだ歯ブラシ 趣味の悪いTシャツも 輝いて見えていたのに」)などは、その典型だろう。
すなわち、主人公(TATTSU自身のことであれ、彼女が取材(?)した女友達のことであれ)が実際に経験したことが、ほとんど「剥き出し」の形で示されているのである。(これと似た体験をするなどして)歌詞に共感できた人にとってはその感動度(カタルシス)は非常に強くなるが、「ちょっとキツイな」と思う人も当然出てくるだろう。その意味でTATTSUの歌詞は、聞き手を選ぶ傾向にあると言える。
・舞衣子のケース
一方、舞衣子の場合、素材となった出来事や経験をそのまま歌詞に流用するのではなく、詩的により洗練された言語やフレーズを使って表現する傾向が強い。例えば、1番Aメロの歌詞など、非常に生々しい情景が描かれているわけだが、実はこの部分、けっして「生の現実」を描いたものではない。
そもそも聴診器でもつけない限り、他人の「胸の音」はそうそう聞こえるものではないし、よしんば聞こうと思ったらあまり色気のない(?)体勢になってしまう。つまりこの部分は、あくまで読者に「抱き合っている二人」という視覚的なイメージを喚起するために仕組まれた比喩表現なのである。
・現実のリアルさと表現のリアルさ
このように舞衣子の歌詞における「リアルさ」とは、(TATTSUのように)「表現される“生の現実”のリアルさ」なのではない。「これはリアルだ」と読者に思わせたり、読者の脳裏にヴィヴィッドなイメージを浮かび上がらせるという意味での「表現やフレーズそのもののリアルさ」を指しているのである。筆者が2番の歌詞(とりわけAメロやサビの前半部)を高く評価するのは、素材となった生の出来事がリアルな詩的言語へと巧みに昇華されているからなのだ。
その意味で詩人としての舞衣子の資質は、あゆかのそれにより近いと言えるだろう。二人とも自らの経験や現実の出来事をそのまま歌詞にすることはない。フレーズや言い回しに磨きをかけて、より洗練された詩的言語に仕上げながら、イメージ豊かな作品世界を構築していくタイプである。(注)
(注)あゆか、及び、TATTSUの歌詞の特徴については、こちらの記事を参照のこと。
4・3 実体験と創作経験の相乗効果
今回の「眠れない三日月」にしても、舞衣子は自身の恋愛経験を参照しつつも、より完成度の高い作品を目指して、言葉を磨き上げていったものと思われる。そして、このように創作行為を積み重ねていく過程で、「愛」に対する彼女の省察も深まっていき、2番のように恋愛関係の本質を突いたリアルなフレーズが生み出されていったのだろう。
つまり今回の作品は、舞衣子自身の実体験というリアリティと、詩的言語のリアリティ(これは厳しい創作経験のなかで磨き上げられていったものである)がうまくマッチすることで、作品としての「深み」が増すことになったと思われるのである。
(以下、次号)
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