« カナシミレンサ考(1) 愛華の原点 | トップページ | カナシミレンサ考(3) 協働的な推敲プロセス »

2009年10月11日 (日)

カナシミレンサ考(2) 詞の虚構性について

2 虚構度から見た歌詞の分析

2・1 詞の虚構性とは

 話はようやく本題に入る(笑)。まずは「カナシミレンサ」の歌詞カードに目を通していただきたい(ここからはCDを購入していることを前提として話を進めさせていただく)。「ママへ」と比べると、詞の雰囲気が異なっていることは明白だ。両者の最大の違いは「虚構度」にあるように思われる。「歌詞の虚構性(物語性)」についてはこのブログでも度々触れてきた。詳細はこちらの記事などを参照していただきたいが、要はこうである。

 詞を書く際に、自分が実際に体験したこと・感じたことをベタに言葉にするだけでは、それに近い体験や思いを(たまたま)したことのあるオーディエンスにしかその言葉は伝わらない。自分の表現したい世界をより多くの人々に伝えるためには、言葉を磨き上げてより普遍的な開かれた詞世界を紡ぎ上げる必要がある

 ただし、歌詞の内容が作者の現実から完全に分離されてしまうと、それがどんなに形式的に完成度が高いものであっても、オーディエンスの胸を打たない作品になってしまう可能性はある。個別と普遍、具体と抽象、素材と加工、ベタとメタ。これらの間の絶妙なバランスが肝要なわけだ。(注)

 (注)さらに歌の場合、言葉(歌詞)とサウンド(歌唱、メロディ、アレンジ、等々)の適合性の問題や、作品と作者が置かれた社会的・文化的ポジションの問題などが複雑に絡んでくる。これについては、また稿を改めて書くことにしたい。

2・1 「主語の扱い」からみた作品の解析
・パーソナルな「ママへ」

 さて、この観点から愛華の歌詞を検討してみよう。「ママへ」と比べると「カナシミレンサ」の歌詞は、その虚構度が著しく上昇していることが分かる。それがもっとも顕著に現れているのが主語の扱いであろう。

 「ママへ」の場合、主語が「私」という一人称(しかも、詞の語尾からそれが「女性」であることもすぐ分かる)になっていることから、この作品の主人公が愛華自身であることは明白である。詞の内容も、彼女自身が実際に体験したことをそのままストレートに言葉にしたものなのだろう。つまり、「ママへ」は愛華のきわめてパーソナルな世界を描いた作品であるわけだ。(注)

 (注)詞の内容があまりにパーソナルなものであると、読者がその世界を十分に把握できないケースも多いのだが、「ママへ」の場合、「母親への思い」という普遍的な内容が詠われているため、オーディエンスにとっては共感しやすい作品となっている。
 とはいえ、この作品が愛華という一個人と密接に結びついていることは言うまでもない。この曲を彼女がソロで歌っているのもそのためであろう。おそらく舞衣子が歌ったとしても、愛華が歌っている時のような説得力は生じないのではないか?母親を思う気持ちは共通していても、そのディテールはやはり個々人の間で違ってくるように思うからである。

・開かれた「カナシミレンサ」の世界

 これに対して「カナシミレンサ」では、主語が「僕ら」という男性名詞の複数形になっている。これによって詞の主人公が作者(愛華)自身からより幅広い人々(そこには当然、詞の読み手や聞き手も含まれるだろう)へと開かれることになる。詞の内容の方もより一般的な表現が用いられていて、愛華自身の個人的な事情はそこからはほとんどうかがい知ることができない。

 詞の虚構度がこのように上がることによって(つまり詞の内容が個人的な文脈から離れて、より一般的な文脈に置かれることで)、オーディエンスはこの詞についてのイメージを自分なりに膨らませることが可能となる。実際、この作品の歌詞を読んでいると、なにか映画のワンシーンを見ているかのようにそのイメージが鮮明に浮かび上がってくるのだ。

 このように読者のイマジネーションを自由に喚起させるような詞を書くためには、それなりの技巧が要求されることになる。主語の変換、内容(ストーリー)の脱-文脈化、表現の一般化・抽象化といったものがそれだ。自身の体験をベタに表現するだけだった「ママへ」と比べると、「カナシミレンサ」における愛華の詩作力は(少なくとも技巧面については)格段にレベルアップしていると見て間違いあるまい。

 もっとも愛華がこの作品を完成させるまでには、かなりの手直し(推敲)のプロセスがあったものと推測される。次項ではこの点についてもう少し詳しく述べることにしたい。

 (以下、次号)

|

« カナシミレンサ考(1) 愛華の原点 | トップページ | カナシミレンサ考(3) 協働的な推敲プロセス »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: カナシミレンサ考(2) 詞の虚構性について:

« カナシミレンサ考(1) 愛華の原点 | トップページ | カナシミレンサ考(3) 協働的な推敲プロセス »