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2009年10月13日 (火)

カナシミレンサ考(4) 「親しみやすさ」の陥穽

4 作品を加工するということ

 愛華自身の詩作力の向上と(前節で触れたような)協働的な推敲作業の積み重ねによって、「カナシミレンサ」の歌詞は非常に洗練されたものになっているわけだが、そこに問題がないわけではない。この点について少し説明することにしよう。

・「親しみやすさ」の陥穽

 作品の虚構度が上がることのメリットについては既に言及した。すなわち、表現やフレーズが個別的なものからより普遍的なものへと加工されることで、その作品はより多くの人々に開かれることとなる。要するに「親しみやすさ」が増すわけだ。

 しかし、物事には必ずオモテとウラがある。作品を親しみやすいものにするということは、しばしばその作品の「凡庸化」を招きがちだ。作品を誰にとっても受け入れやすいものにするためには、「はやりのフレーズ」や「紋切り型の表現」にある程度までは依拠せざるを得ないからである。(注)

 (注)とりわけ近年の消費者は、馴染みのないものや自分がすぐに理解できないものについては恐ろしいほど冷淡であるから、制作者サイドはそうした消費者の志向性に合わせて作品をますます「分かりやすいもの」にするよう強いられることになる。やれやれ。

 また作品の洗練化の過程で、制作の初期段階にあった「過剰な要素」(悪や毒、狂気、ノイズ、カオス、等々)が削られたり消費者に受け入れやすいよう加工されたりすることで、その作品が持っていた原初的なパワーが(幾分)損なわれてしまう側面もあることは否定できない。

 おそらく優れたアーティストというのは、自身の表現衝動を人々の慣れ親しんだ表現様式のなかに巧みに昇華させることで、アートの原初的なパワーを損なわずにポピュラリティ(大衆性)も獲得できるような作品を産み出せる、ある種、魔術師のようなタイプの人間なのだろう。

・「カナシミレンサ」のケース

 さて、以上の視点を「カナシミレンサ」にも適用してみよう。この曲の歌詞がオリジナルの段階からかなり加工処理されている可能性については既に指摘した。実際、完成版の歌詞はかなり洗練されたものとなっていて、「ママへ」の詞にみられるような素朴で荒削りなニュアンスはほとんど感じられない。

 しかしその反面、詞のフレーズやそれが喚起するイメージがどこかで見聞きした感のすることも確かである。例えば、1番Aメロにおける「大切なものの喪失」と「モノクロの風景」との結びつきはポップスの歌詞ではお馴染みのものであるし、「居場所」「閉ざしたココロ」「形のないシアワセ」といったフレーズも、近年のポップス界で使用頻度が高そうな言い回しだ。

 このようにこの曲の歌詞はいかにもポップスらしい卑近なフレーズや言い回しに満ちているわけだが(そしてそのことが作品をより親しみやすいものにしているわけだ)、にもかかわらず「カナシミレンサ」は単に親しみやすい「だけ」の凡庸な作品ではけっしてない。読者やリスナーの心をどこかで繋ぎ止めておくだけの力を保持しているように思えるのだ。

 では、いったい何がこの作品にそうした力を与えているのであろうか?筆者は、この作品が作者である愛華自身の「現実」にしっかりと根ざしたものであることに、その答えを見出す。つまり、単なる絵空事ではない「真実」がそこに描かれているからこそ、「カナシミレンサ」はリスナーの心に残る作品となっているように思うのである。以下、この点についてもう少し詳しく検討することにしたい。

 (以下、次号)

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