カナシミレンサ考(12) 制作活動が愛華に及ぼしたもの
11 おわりに
11・1 愛華の急成長?
これまで様々な角度から「カナシミレンサ」の歌詞について検討(妄想?)してきたわけだが、本作で愛華がこのように高い作詞能力を示したことは、筆者にとっても大きな驚きであった。ライブのMCやラジオ番組での「おばか」な発言を知っている身からすれば、彼女からあのようにシリアスな詞が生まれてくるとは思いも及ばなかったからである(笑)。
彼女の詩作力がホンモノであるとすれば、MARIAはあゆか・TATTSU・舞衣子に続く第4の詩人を獲得したことになる。これによって表現できる世界も拡がるわけであるから、これはバンドにとってもうれしい誤算(?)であろう。
ただ、作詞家としての愛華の本性(?)を見極めるには、もう少し時間をかけた方がよさそうだ。というのも今回の作品はかなり特殊な条件下で制作されているため、詞の方もその(良き)影響によって相当下支えされていると考えられるからである。
11・2 作品を後押しした諸条件
・実体験の重み
まず何よりも大きいのが、愛華自身が「悲しみ連鎖」の経験をし、それを乗り越えてきていること(詳細は「愛華にとっての「カナシミレンサ」」を参照)。そのことがこの作品に「真実性」という重みを与えていることは否定できない。
もちろん、経験が全てなわけではない。実体験という裏付けがなくても、真実味あふれる作品を書ける人もいる。ただその場合も、制作の過程で自己と向き合い、言葉を磨き上げていく厳しい「創作経験」を経ていると考えられる。逆に言えば、どんなに作者の実体験が豊かであっても、そうした厳しい創作プロセスを経ていない作品(例えば、自分の経験をベタに言葉にしただけの作品)は、読者を惹きつけるだけの力を帯びないわけだ。
・タイアップの副次的効果
その意味で言えば、今回の作品が「戦場のヴァルキュリア」のオープニング・テーマであったことも、作品の品質向上にプラスの影響を与えることになったのかもしれない。というのも、詞をアニメの内容に(ある程度まで)合わせるために、言葉をより入念に吟味する必要があったと思われるからである。
そして実際、主語が「僕ら」になったり、より多義的な解釈が可能になるようストーリーが抽象化されたりすることで、作品は愛華自身の個別的な文脈を越えてより多くの人々に開かれたものとなっている(これについては「詞の虚構性について」を参照のこと)。
・周囲の人々からの影響
さらに今回の作品を仕上げるにあたって、愛華が周囲の人々から様々な影響を受けていることも指摘しておかねばなるまい。例えば、「ココロ」「シアワセ」「イラナイ」といったカタカナ標記は、あゆかの詞によく見られる表現様式だ。おそらく、彼女の作品を参考にしながら詞を書いているうちに、愛華は(無意識のうちに)この表現様式を採用してしまったのではないか?
他にも周囲の人々から直接間接の様々な影響を受けながら推敲作業を続けていくうちに、言葉は磨きをかけられ作品世界は深みを増していったのだろう(詳しくは「協働的な推敲のプロセス」を参照のこと)。
これらの様々な条件や状況が重なることで、「カナシミレンサ」はこのように完成度の高い作品になったと考えられる。したがって愛華の本当の詩作力を見極めるためには、今回とは異なる条件の下で書かれた作品(次作以降の)を検討する必要があるだろう。
11・3 「カナシミレンサ」の制作が愛華に及ぼした影響
・創作という経験
とはいえ、「カナシミレンサ」という作品が愛華にとって大きな意義を持つ作品になったことは否定できない。まず今回の作品の制作を通じて、彼女は創作活動の苦しみと喜びの双方を深く体感することとなった。このことは、これからの愛華の表現活動にとって貴重な財産(原点)となるだろう。(注)
(注)もちろん、それ以前の作品(「ママへ」や「X’maria」)でもそうした経験を彼女は多少は味わっていたかもしれない。
しかし、パーソナルな色彩が強かったこれらの作品とオフィシャルに発表されることが決まっていた「カナシミレンサ」とでは、制作にあたっての「濃度」(期限までに仕上げなければならないというプレッシャー、自分自身と対峙する苦しみ、オーディエンスにより伝わるよう言葉を磨き上げる必要性、などの度合い)が全然違っていたと思われる。前作までが「アマチュアの習作」だとすれば、今作は「プロのお仕事」というわけだ。この差は大きい。
・人間としての成長
そして何よりも今回の作品を仕上げることで、愛華は自身の「悲しみ連鎖」を本当の意味で乗り越えることになったと筆者は考えている。もちろん、この詞を完成させる以前に彼女は「悲しみ連鎖」の罠から事実上、解放されてはいたのだろう。
しかし、自らの経験に向き合いそれを「言葉」にすることで、彼女はこの現象についてのより深い「洞察」を獲得することになった(これについては、「洞察と回復」を参照)。自分を苦しめた現象をこのように深く把握することで、愛華は自身の「悲しみ連鎖」に決着をつけることができたと同時に、人間的にも一皮剥けることになったと思われる。
これからも愛華は「悲しみ連鎖」を初めとする様々な経験をすることになるだろう。しかし、そうした経験に真摯に向き合い、優れた作品へと昇華させていくことで、彼女は作詞家としてのみならず人間としても成長を遂げていくことが見込まれる。愛華の弛まぬ精進と成長を願ってやまない。
(了)
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