カナシミレンサ考(11) 「悲しみ連鎖」からの回復と洞察
10・2 「悲しみ連鎖」からの回復(2番)
・第一の処方箋~自己の囚われに気づくこと~
「悲しみ連鎖」という現象が「主観的な誤認の賜(たまもの)」である点については既に述べた(「認識問題としてのカナシミレンサ」を参照)。実際には楽しい出来事やうれしい出来事も生じているはずなのに、ネガティブ・モードにスイッチの入った「認識装置」はそれらの出来事を認識せず、悲しい出来事やつらい出来事ばかりを「経験」として組織化してしまう。こうして「悲しいこと・つらいことばかりが立て続けに起きている」かのように主観的には思えてしまうわけだ。
したがって「悲しみ連鎖」の苦悩から解放されるためには、こうした「主観的誤認の罠」に自分が囚われていることを察知すればよいということになる。2番のサビの歌詞(「形のないシアワセに気づいていくこと」)は、まさにそのことを示しているのだろう。そう、チルチルとミチルが探していた青い鳥のように、シアワセはいつだって目の前にある。ただ、我々の「認識装置」がそれを経験(=形のあるシアワセ)として組織化していないだけなのだ。
・第二の処方箋~日々の営みを全うすること~
とはいえ、このような「気づき」はそうそう簡単にできるものではない。そもそも「悲しみ連鎖」とは、「(個人の)認識の病」であると同時に「(他者との)関係性の病」でもある。他者と形成している関係ネットワークの動揺が個人の内面や心理に反映されることでこの現象が生じるわけであるから、関係ネットワークがある程度の安定を取り戻さない限り、上で述べたような「気づき」は生じにくい。
ではどうすればよいのか。これについては1番のラストの歌詞が手がかりとなる。「確かな今 追いかけて…」とは、「悲しみ連鎖」の苦悩を抱えつつも、今現在を精一杯生きること、と読み替えることができるだろう。このように日々の営みを確実に全うしていくことで、周囲の人々との関係性が安定するようになり、それに伴って内面の方もバランスを取り戻していく。この段階に達してようやく、様々な「気づき」や「洞察」が可能となるのである。
・洞察と回復
愛華の場合も、苦悩を抱えながらも何とか日々の生活を全うしていくうちに、彼女のネットワークはそのバランスを回復していったのだろう(詳しくは、「悲しみ連鎖」に伴う関係性の変容」を参照)。そんなある時、「悲しみ連鎖」から解放されるきっかけとなる「気づき」を愛華は経験する。「“アイ”の欠片」を見つけるのだ。この“アイ”が「重要な他者との関係性」を示していることは言うまでもない(注)。
(注)“アイ”は第一義的には「愛」を差すが、「支え合い」の“アイ”でもあり、「出会い」の“アイ”でもある。
このとき彼女は、「悲しみ連鎖」にまつわる真実、すなわち、「自分の苦悩の正体が関係性の喪失にあること」を瞬時に洞察したのではないか?だからこそ彼女は、自分を支えてくれる重要な他者との関係性(“アイ”)を2度と失わないよう、大切に「守り続け」ることを決意したわけである。
このようなある種「悟り」にも似た「気づき」を経験をすることで、彼女の「認識装置」もポジティブ・モードにスイッチが入り、「形のないシアワセ」(例えば、自分が一人ではないことや、様々な人々から支えられていること、等々)にも気付くことができるようになったと思われる。そして、「いつかここで枯れない花を咲かせる」ために「もう迷わないで」日々の営みに専念することを誓う。(注)
(注)この部分の歌詞は愛華にとっては「MARIAの活動の成功」を指しているわけだが、我々にとっては「自分の夢や目標(「僕らの願い」)の実現」を意味していると見なしていいだろう。
・「悲しみ連鎖」の先にあるもの
そして、「悲しみ連鎖」の経験を経て愛華が最終的にたどり着いた境地は、「ゆるがない思いを強く胸に刻んで鎖いでいく」ことだった。これは以下の補足が必要であろう。
我々は生きていくうちに、様々な「関係性のゆらぎ」(失恋や死別といった関係性の喪失や、不和・敵対による関係の悪化、転居や移動に伴う関係の希薄化、等々)を経験する。「関係性のゆらぎ」は必然的に「内面性のゆらぎ」を伴う。不安や孤独に苛まされる日もあるだろう。
しかし、そういった苦悩を抱えながらも日々の営みを全うしていくうちに、関係ネットワークが安定し内面も落ち着きを取り戻す日が必ずやって来る。最後の歌詞の「ゆるがない思い」とは、こうした「長期的な見通し」のことを指していると見なすべきであろう。そのことを「強く胸に刻んで鎖いでいく」ことで、我々は「悲しみ連鎖」のるつぼに完全に巻き込まれることから身を守ることができるのである。
………
以上、「カナシミレンサ」の歌詞について検討してきた。これまでの分析から、愛華が紡ぎ上げてきた言葉の中に、人間の認知的なメカニズムや他者との関係性にまつわる多くの真実(愛華のみならず、我々にとっても妥当する真実)が含まれていることがお分かりいただけたのではないかと思う。だからこそ、「カナシミレンサ」の歌詞は多くの人の胸に響くものとなっているのだろう。(注)
(注)もちろん愛華は、筆者が行ってきたような理論的な考察によってこの歌詞を導き出したわけではあるまい。彼女自身が「悲しみ連鎖」の経験を経るなかである種の「洞察」を得ていたこと、そして何よりも「詞を書く」という創作行為の中で自分と向かい合い、また言葉を磨き上げていくうちに、人間生活にまつわるより深い真実性に(本人も気づかぬ内に)到達していた、ということだと思われる。
それこそが、「創作」という営み(作詞という文学的な営みであるにせよ、作曲というよりアーティスティックな営みであるにせよ)の持つ不可思議な力なのであろう。
(以下、次号)
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