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2008年10月29日 (水)

お詫びとお知らせ

 本来であれば前回の記事の続きを書く予定であったが、急遽、予定を変更させていただくことにしたい。

 先日、私は大きな過ちを犯してしまった。ランタイムのアーティストを応援しているあるブロガーさんの記事に、ネガコメと受け止められても仕方のない書き込みをして、そのブログ主さんを深く傷つけてしまったのである。

 そこで、今回はその方に対するお詫びも兼ねて、事の経緯を説明することにしたいと思う。

1 事の経緯

 そのブログは、ランタイム系のアーティストを応援する気持ちという点では、私よりもはるかに熱い魂を持ったブログ主さんによって運営されているサイトである。当時、MARIAのことを応援するサイトが少なかったこともあって、たぶんそのブログが開設された当初から、私はその方の記事を愛読していた。彼女たちに対して時に厳しいことを書くこともあったが、その場合でも文章の端々からそのアーティストに対する深い愛情が感じられ、不快に思ったことは一度もなかった。

 さて、先週の土曜日の晩(正確には日曜日の朝)、そのブログでMARIAの結成3周年に関する記事を読んだ。厳しい内容が含まれてはいたが、例によってMARIAのことを心から慮って(おもんぱかって)の記事であることは、冷静に読めばすぐ分かることと思う。

 ところがなぜかその日に限って、私はその記事を読んで我を失ってしまったのである。気がつくと、その記事(というかブログ主さん)を激烈に批判するコメントを書いて送信していた。

 ちなみに、私はこれまで他人様のブログに書き込みをしたことは一度もない。そもそも縁もゆかりもない相手と接触すること自体、小心者の私には抵抗があったし、もしある記事に対して意見や感想があれば、それは自分のブログで書けばいいと思っていたからだ。

 それなのに、あの日に限って私はまるで何かに取り憑かれたかのようにコメントを送信していたのである。

 なぜあんなことをしてしまったのだろう?ある程度、冷静さを取り戻した今ふり返ってみても、よくわからない。アルコールが入っていたわけでもなければ、特にストレスがたまっていたわけでもない。理由がよく分からないだけに、自分のしでかした行為の理解し難さに呆然としているのが現在の私の実情である。

 しかし、一番の被害者は当のブログ主さんだろう。彼はあの記事を書くにあたって、相当神経を使ったことと思う。MARIAの音楽活動が停滞していることに対する不満と、今後の活動の先行きが見えないことに対する不安。そうしたともすれば爆発しそうになる感情をギリギリで抑えながら、彼はあの記事を書いたのだと思う。

 それだけでも大変な労力なのに、そこへいきなり見も知らぬ相手から罵声を浴びせかけられたわけだから、そのショックはどれほどのものだったろうか。しかも、律儀なブログ主さんは、その無礼なコメントに対しても誠実にレスポンスの記事を書いて下さった。そのために、彼はせっかくの休日の大半を費やしてしまったのではないだろうか。私のコメントはブログ主さんの感情を傷つけただけでなく、彼の生活の一部まで犠牲にしてしまったのである。

 この件について、ここで改めてブログ主さんにお詫びしたいと思う。本当に申し訳ありませんでした。どんなに謝っても謝りきれるものではありませんが、あなたの心情を傷つけてしまったことを深くお詫び申し上げます。そして、おこがましいことですが、また元の平穏な生活に戻られることを心よりお祈りしています。

2 けじめ

2・1 私のポリシー

 さて、次に今回の件に対する私の「けじめ」について書いておきたいと思う。私がこのブログの記事を書く際に常々心がけてきたのは、他人を傷つけるようなことはできるだけ書くまい、ということであった。

 ネット上の言説は、表情や口調といった書き手の意図を把握するための補助情報が著しく欠けているため、構造的に誤解や誤認を招きやすい。そうした無益なトラブルを避けるためにも、細心の注意を払って文章を練り上げる必要がある。

 このため、私はこのブログに記事をアップする際には事前に何度も下書きを推敲して、誤解や誤読の余地を限りなく少なくしてから投稿するよう心がけてきた。一本の記事を仕上げるのに一週間以上かかるケースも少なくない。それでも、不注意な言葉づかいによって誰かを傷つけるよりはマシと思って、今日までその方針を貫いてきたわけである。

 また、このブログでできるだけ他人様を批判しないようにしているのも、上記のような誤解や誤認が生じるのを避けるためである。そもそも、どれほど細心の注意を払っても、批判的な文章は批判の対象をある程度は傷つけずにはおかない。

 また、批判的な言説に含まれている「ネガティブな内容」は、しばしば書いている本人も蝕んでいく。書いている間は気持ちよくても、暫く経ってからは何とも言えない「イヤな気持ち」に襲われることは少なくない。「人を呪わば、穴二つ」ということわざは、このあたりの人情の機微を教えているのだろう。

2・2 ペナルティー

 それはともかく、今回の一件で私は自らに課したルールを著しく侵害することになってしまった。冷静に下書きを推敲することもなくブログ主さんを非難するコメントを送信し、苦心してその文章を書き上げたはずのブログ主さんの心情を大きく傷つけてしまった。

 彼に対して「愛がない」などと書きながら、実は一番「愛がない」コメントを突きつけていたのは当の私自身だったわけである。デリカシーなく他人のブログにネガコメを残していく最も忌むべき人種に、当の私自身がなってしまったのである。本当に悲しく、情けない。

 自分に課したルールを侵害した以上、ペナルティーが課せられるのは当然である。今回の一件で、私はネット上で自分の意見を発表する資格を一時失ったと考える。そのための謹慎期間として、当ブログの更新を、当分のあいだ差し控えさせていただくことにしたい

 しばらく頭を冷やして、二度とこうした事態が生じないための十分な対策が取れたと確信できたあかつきには、またブログを再開することをお許しいただきたいと思う。なお、このペナルティーはあくまで私が自分自身で課すことを決めたものであって、件のブログ主さんの意向とは何の関わりもないことを申し添えておく。

3 考察

3・1 「言葉に乗っ取られる」ということ

 今回の一件で私は良い経験をさせていただいたと思っている。日頃、文章を書くことを主な業務としていることもあって、私は言葉の操作には人一倍、敏感なつもりでいた。以前、このブログで「文章に書かされている気がする」と書いたことがある。しかし、それは記事の完成後にふり返ってそう思ったことであり、記事を書いている最中はあくまで私は言葉をコントロールする側にいた。

 また、ネットの界隈で見かけるコメント欄の「炎上さわぎ」を見かけても、「なぜもっと冷静になれないのだろう?」と不思議な気持ちでいた。結局、ああいう事件を引き起こす人は理性と自制心が足りないのだろう。ずっとそんな風に思っていたのである。

 しかし、今回の件で、私はそうしたものの見方を根底から崩されることになった。あの日あの時、私は完全に「言葉に支配されていた」。ブログ主さんがどのような考え方の持ち主で、どのような意図からあの記事を書いたのかも十分理解していたはずなのに、あの記事の何らかの「言葉」によって私の理性は完全に失われ、攻撃的なコメントを書かせるに至った。

 そのコメントにしても、最初は「ちょっと厳しすぎるのでは」とたしなめる程度の内容を書くつもりであった気がする。しかし、いざコメントを書き始めると、言葉はどんどんその攻撃性を強め、気がつけばブログ主さんを詰問するような内容になっていた。

 そして、いつもならそんな文章を書いても、何度も読み直すことで投稿を諦めたり、文章を破棄したりするのに、あの日に限って私はそうしたことをせず、魅入られるように送信ボタンを押していた。今ふり返っても「何かに取り憑かれた」としか言いようのない経験であった。

3・2 言霊

 ふと思い出すのが「言霊(ことだま)」の存在である。言葉というのは呪術的な力を持っていて、それを発した人の意志や意図を実現させる力を持つと同時に、話し手の意図を離れて一人歩きしたり、話し手自身に跳ね返ってきたりする。

 言葉の持つこうした不思議な力を信じていた昔の日本人は、言葉づかいに対してきわめて慎重であった。「祝詞(のりと)」や「忌み言葉」のような制度は、そうした言霊信仰の現れだとされている。

 もちろん、こうした言霊の存在を「非合理である」とか「迷信だ」として片付けるのが現代の趨勢なのであろう。もちろん、私もこれまでこうした言霊信仰を非合理なものと思っていた。言葉はあくまで記述のための手段であり道具であり一つの社会制度にすぎない。そう思っていたのである。

 しかし、今回の件で私は「言葉の持つ魔術的な力」を再認識せざるをえなくなった。もちろん、言霊という霊的な存在が実在するとは思わない。ただ、あの日あの時、私は言葉の支配下に完全に置かれていたことだけは事実である。そして、今そこで書かれたコメントを読んでも、小心者の自分が書いたとは思えないほど攻撃的な内容に愕然としている。

 だからといって、自分がしでかした行為の責任を回避するつもりは毛頭ない。あの文章を書いたのはやはり私自身なのだから。

 ただ、言葉というものが単なる記述の手段や道具であるにとどまらず、時にその言葉を操っている当の人間の精神を乗っ取ってしまう恐ろしい力を持っているということ、誰でもその力に屈してしまう可能性があること、だからこそ言葉にはより慎重に対処しなければならないということだけは身に染みて実感した

 謹慎期間中は、こうした言葉の魔術的な力に乗っ取られないための処方箋(ネットには一定時間以上は触れないとか、現実生活をより充実させる、とか)を考えるつもりである。

3・3 事件の背後にあったもの

 最後に、ランタイムならびにソニーの関係者に一言申し上げておきたい。今回の一件の根底にあるのは、やはりMARIAや実夕の活動が停滞していることに対する不満や不安であるように思う。そして、こうした感情はこれらのアーティストを応援している全てのファンが共有しているものであろう。

 今回の一件も、こうしたやり場のないファンの感情がネット空間でぶつかってしまった不幸な事件であるように思える。そして、ファンにこのような思いをさせている時点で、企業としてはやはり失格なのではないだろうか。

 なぜ今年になってMARIAのライブやプロモーション活動が激減したのか。その背景をスタッフやアーティスト自身がきちんと説明してくれるなら、たとえそれが厳しい現実であってもファンは納得する。それを隠そうとするから、ファンのあいだに不安や動揺が拡がり、スタッフ・サイド(ひいてはアーティスト)への不信感が強まっていくのである。

 ただでさえ減少しつつあるファンの気持ちをこれ以上離れさせないためにも、スタッフ・サイドにはよりいっそうの情報公開とアカウンタビリティーの遵守をお願いしたい。謹慎前の筆者からの最後のお願いである(なお、この件についてはこちらの記事も参照のこと)。

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コメント

お邪魔します。
ゆっくりと読ませていただきました。

一日も早く戻ってこられることをお待ちしております。
なんといっても、貴殿のブログのおかげでTAKAYOさんを待ち続けようと思う気持ちを持つことができたのですから。

投稿: なおじろけん | 2008年10月29日 (水) 21時37分

なおじろけん様

お気遣いありがとうございます。しっかり頭を冷やしてきます。

投稿: shibue | 2008年10月31日 (金) 15時24分

失礼いたします。
日常的に記事を読ませて頂いていた者です。

再開については何も言うつもりはありません。
『けじめ』をつけようとしている方に
そのような事を言うのは失礼以外の何物でもないと
私自身が考えているからです。

ただブログ主様の記事のおかげでランタイムアーティストやTAKAYO様への見解、考え方を変えていただいき、
気長に待つことを教えられた者もいることだけは
忘れないで頂けたら幸いです。

最後に、自己満足な書き込みですので
わざわざブログ主様の貴重なお時間を割いて頂かなくて
構いませんので、時間をかけじっくりと考え、あなた様なりの答えを導き出してください。

説教くさい文章になってしまい申し訳ありません。

投稿: くま | 2008年11月 9日 (日) 23時46分

くま様

 管理人のshibueです。くま様のお言葉、胸に刻みつけておきます。

 なお、私の「けじめ」についてですが、年内はブログの執筆を自粛することにしました。

 ブログを再開する態勢が整いましたら、当ブログで追って連絡させていただく所存です。

 以上、取り急ぎご連絡まで。

投稿: shibue | 2008年11月12日 (水) 13時56分

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