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2008年10月17日 (金)

「哀哭の果て」の深さについて(MARIA5thシングル・レビューその3)

0 はじめに

 前々回の記事でもチラッと触れたように、今回のシングルにおける最大の収穫はこの「哀哭の果て」だと筆者は考えている。と書くと怪訝な顔をされる方もいるかもしれない。「悪い曲じゃないけど、ちょっと地味じゃない?」というのが大方の意見であろうから。

 確かにこの曲は「さよなら大好きな人」ほどキャッチーではないし、もう一つのカップリングである「Break out」ほど派手ではない。しかし、筆者が「哀哭の果て」を評価するのは、この曲にMARIAの新境地と言えそうな要素がいくつも盛り込まれているからである。それらの要素について、以下、個別に検討していくことにしよう。

1 歌詞について

 この曲でまず注目に値するのは、歌詞の内容であろう。作詞を担当したのはあゆっぺ。彼女がMARIAきっての詩人であることは、ファンの皆さんもよく御存知だと思う。

 以前「ゆらり桜空…」の歌詞を分析した際、筆者はあゆっぺが詩人としてワン・ステップ成長したと評価した(こちらの記事を参照)。あれから半年。今回の曲で彼女はまた一歩、新たな境地に足を踏み入れたように思える。その理由はこうである。

1・1 MARIAの詞の世界
・ポジティヴだが深みに欠ける?

 あゆっぺに限らず、MARIAのメンバーがこれまで書いてきた詞は、明るく前向きな内容のものが多かった。もちろん、「つぼみ」や「My road」のように未来への不安を歌った暗めの作品もあるが、最終的にはそうした不安を克服しようというポジティブな決意で物語は終わっている。

 このような「前向きさ」こそMARIAというグループや彼女たちの奏でる楽曲の最大の魅力ではあるのだが、反面、作品としての「深み」に若干欠ける印象を聴き手に与えていたこともまた事実である。

・近しいけど狭い世界

 このような印象がどこから来ているのかというと、彼女たちの書く作品が私小説的であることに求められるように思う。つまり、「私」ないし「私たち=私と君/あなた/みんな(メンバーやファンといった仲間達)」の身近ではあるが狭い世界しかそこには描かれていないのである。

 おそらくMARIAの面々は、自分たちがこれまで経験してきたことを素材にして詞を組み立てるケースが多いのだろう。もちろん「夏えがお」や「MABUDACHI」のように虚構性(物語性)の高い作品もあるのだが、そこにも自身の経験や想いが何らかの形で反映されていることは言うまでもない。

 しかし、メンバー達の年齢やこれまでの経歴(学校生活とスタジオ・ランタイムでの訓練に追われる日々)を考えると、彼女たちの体験は必然的に限られたものとならざるをえない。となると、そうした経験を素にした作品世界の拡がりも自ずと限定されたものになってしまう。

 おそらく、MARIAと同世代かそれよりやや下(10代)のファンにとっては、彼女たちの描く世界は非常にリアルに感じられることだろう。彼(女)らはMARIAが歌う「私/私たちの世界」内部の住人なのだから

 しかし、彼女たちより上の世代、とりわけ実社会の洗礼を浴びてしまった大人の目からすると、MARIAの理想主義的な世界観は何とも青臭く感じられ(そこには、自分の中で青春が終わったことに対するアンビバレントな想いも含まれているのだろう)、そのことが「深みに欠ける」ような印象をもたらしてしまうのではないだろうか。(注)

 (注)まあ、筆者くらい世俗の垢にとことん塗れて(まみれて)しまうと、彼女たちの「青臭さ」が逆に新鮮で身に染みたりするのだが(笑)、それはまた別の話。

・詩的創作力とは

 もちろん、人生経験を積めば深い作品を書けるというわけではない。そうした経験を真摯に内省=対象化して自らの内に血肉化しない限り、説教臭いオヤジにはなれても有能な詩人にはなれないであろう。

 また、多くの詩人が自身の最高傑作をものにしたのは、人生の後期ではなく比較的若い時期であった。彼らが自らの経験値の限界を突破して深い作品を構築しえたのは、ひとえに「詩的創作力(想像力+構成力)」の賜であろう。

 すなわち、現実の出来事や実体験に詩の素材を求める場合でも、それを作品へと仕上げる際にはその内容を脱文脈化させて(つまり、実際の出来事や体験が生じたTPOから詩の内容を離脱させて)、より普遍性のある作品世界へと言葉を磨き上げる能力がそれである。だからこそ彼らの紡ぐ言葉は、世代や時代を越えて誰にとっても説得力のある響きを持ち得るのだろう。

 さて、MARIAのメンバーの中で現時点でこの詩的創作力がもっとも優れているのがあゆっぺであることは既に述べた(こちらの記事を参照)。その彼女と言えどもこれまでの作品の射程は、基本的には「一人称の世界」、すなわち「私」とその近しい人々(君/あなた/みんな)から成る身近で馴染み深い世界にとどまっていた。

 しかし、今回の「哀哭の果て」であゆっぺはその作品世界の射程を大きく拡げたように思える。具体的に言うと、これまで登場しなかった「『私たち』の外部の世界」、すなわち「社会的なるもの」の存在が作品に取り入れられているのだ。以下、この作品の歌詞を細かく検討してみよう(妄想込み)。

1・2 「哀哭の果て」の詞の分析
・息苦しい現代社会の描写(1番)

 この曲のサビの部分だけ聞くと、これまで通り「一人称(私)の世界」について歌っているように聞こえるかもしれない。「自由への欲求」や「本当の自分探し」というのも陳腐と言えば陳腐なテーマだ。

 しかし、この作品の真骨頂は実はそれより前の部分にある。とりわけ1番のAメロの歌詞は印象的で、犠牲者を作り出しては祭り上げる(=悪者を見出しては吊し上げる)ことによってガス抜きをし、何とかそのシステムを維持している閉塞感に満ちた現代社会の有り様が巧みに表現されている。

 続くBメロは、笑ったり人の役に立ったりするためには「イイコ(=社会的適応者・勝者)」でなければならない(裏返せば、こうした社会に適応できない人(敗者)は笑うことすらできない)という「ゼロ・サム的な」社会の実状を暗示しているとも読める。

・現代社会を生きる者の孤独(2番)

 続く2番のAメロ・Bメロで歌われている主人公の「孤独」も、こうした現代社会の文脈に置くことで理解可能となるだろう。

 すなわち、このようなゼロ・サム的な(=弱肉強食的な)社会では、人々は虚勢を張ってでも「強さ」(ここに「やる気」や「意欲」を含めてもいいだろう)をアピールせざるをえない。そうしないと、社会的敗者(弱者・落伍者)の烙印を押されてしまうからだ。この曲の主人公が(自身の孤独も含めた)「弱い所」を周囲の人々から隠さざるをえないのはそのためである。

 しかし、いくらマッチョを気取っても、自分が強者であり続ける保証はない。そして、弱音を吐いたりそれを慰め合ったりすることも許されないまま、人々の孤独はますます深まることになる…。「自己責任」の名の下に個人間の分断統治が進行している現代社会においては、人々はこうした孤立感に苦しみながら生きていかねばならないことを、この簡潔な歌詞は教えてくれる。

・魂の叫び(サビ/Cメロ)

 以上の文脈をわきまえた上で、もう一度サビの部分に戻ることにしよう。そう、この曲の主人公はけっしてエゴイスティックに自由を希求しているわけでも、暢気に自分探しをしているわけでもない。ともすれば窒息しそうになる閉塞した社会状況から何とか離脱したいという「魂の叫び」がこの曲の本当のテーマなのだ

 Cメロの歌詞も同様の趣旨で理解することができる。この歪んだ社会に適応する過程で、主人公は「凸凹でアンバランスな」鎧を心に装着するはめになってしまったわけだが、本来は自分を守るはずのものであったこの鎧が今や主人公の息苦しさを増すのに一役買ってしまっている。壊したくなっても当然であろう。(注)

 (注)まあ、ラスト(大サビ)の歌詞が若干弱い気がするが(笑)、初めて「社会批評的な歌詞」に挑戦したあゆっぺにそこまで要求するのは酷というものかもしれない。

・詞人としてのあゆかの成長~三人称の世界へ~

 以上の考察から、あゆっぺが「新しい境地」に足を踏み入れたと冒頭で筆者が述べた理由も既にお分かりいただけたのではないかと思う。彼女は「社会」という「三人称の世界(時間も空気も思い通りにならない世界)」を作品に取り入れることで、「個人と社会の相克(きしみ)」というより普遍的なテーマにたどり着いたわけである。

 もちろん、あゆっぺは上記のようなことを理論的に考えてこの歌詞を書いたわけではあるまい。おそらく、いつもやっているように自分の内側から湧き出てくる声を作品へとまとめ上げていっただけなのであろう。

 しかし、理屈を知らずともこのように普遍的なテーマへと到達してしまうあたりが、彼女の「詩的創作力」の為せる業であり、その創作力が今も進化していることの証なのである。

2 楽曲について

 歌詞の分析でエネルギーをだいぶ消耗したので(笑)、楽曲の分析についてはサラッと済ませることにしたい。

2・1 あゆか節の変化~「せつなさ」から「哀しみ」へ~

 あゆっぺの作る曲といえば、その「切ない響き」(いわゆる「あゆか節」)に定評がある。前作の「ゆらり桜空…」などはまさに切なさ満点の曲であったわけだし、「あなたに…」や「碧色のユメ」(たぶん彼女の作曲だと思う)なども「あゆか節」が存分に駆使された名曲であった。

 しかし今回の作品では、そうした切なさは影をひそめて「哀しみ」の要素がより前面に出ているように思う。おそらく、従来のあゆか節に顕著だった「甘美な切なさ」では、この曲の重いテーマ(きしむ社会の中できしむ個人)を表現しきれなかったため、彼女は「哀しみ」という新たな要素をメロディーへ組み込むことになったのだろう。

 その意味で、彼女は作曲面でも一回り成長したと言える。

2・2 浮遊感の正体
・リズム面

 さて、この曲に顕著な特徴をもう一点挙げるとすれば、それは「浮遊感」ということになるだろう。

 この浮遊感はメロディーとリズムの双方から構成されているわけだが、とりわけ愛華マンの奏でるベース・ラインによってもたらされている部分が大きい。ジャンルで言えば、R&B的なリズムということになるのだろうか(詳しい方、教えてください)。このうねるリズムに乗って歌われることで、重いテーマをはらんだこの曲もリスナーの耳にはキャッチーに響くことになる。

 また、この浮遊感に満ちたサウンドは、この曲に深い「余韻」を与えることにも成功している。おそらく、別のリズム(たとえば、「つぼみ」のようなロック・ビート)で演奏されていたら、この曲のたなびく余韻は失われてしまったことだろう。

 同様に、この曲でツイン・ベースの使用が最小限に抑えられているのも(注)、曲が重くなりすぎて浮遊感が失われるのを避けるためと推測される。また、TATTSUのドラミングがいつになく繊細だったり(シンバル・ワークが多用されている)、スネア音の抜けが良くなっている理由も、このあたりに求められるのかもしれない。

 (注)筆者が聴いた限りでは、ツイン・ベースになっているのは2番のAメロ部分のみだった(舞衣ちんがピックでリズムを刻んでいるように聞こえる)。もっとも、これはあくまでCDを聴いた範囲での推測である。ライブでこの曲の演奏シーンを見た方は、ぜひ真相をお聴かせいただきたい。

・サウンド面

 もちろん、この曲に浮遊感を与えているのはリズムだけではない。この効果を出すために、メロディー面でも様々な工夫が為されている。

 今回の曲で目立つのはれいなのキーボード・ワーク。とりわけ、イントロやエンディングで聞かれるエレピの温かくもフワッとした音色は、この曲の「浮遊感に満ちた哀しみ」を的確に表現している。バッキングのシンセの響きも80年代初頭の音色に近く(以下の映像を参照)、この曲の浮遊感を醸し出すのに一役買っている。時折混じるグロッケン(?)の響きも効果的だ。

 ギターのアレンジも同様に、浮遊感をもたらすことに主眼が置かれている。SACCHINがいつものようにリズムを刻むのではなく、サステインを効かせたフレーズを弾いているのもこのためだろうし、2番後のあゆっぺの憂いをはらみつつ飛翔するギター・ソロなどはまさにこの曲の趣旨を忠実に反映した演奏となっている。

 このように演奏面を細かく検討していくと、この曲がメロディーとリズムの細部に至るまで、統一的なコンセプト(「浮遊感に満ちた哀しみ」)の下に構成されていることが分かる。このあたりの丁寧なサウンド・プロダクションはさすが明石さんと言うべきなのだろう。

3 ボーカルについて

3・1 舞衣子の繊細なボーカル・コントロール

 次にボーカル面について。この曲も「さよなら大好きな人」と同様、基本的には舞衣ちんのソロで、愛華マンによるユニゾンとTATTSU・あゆっぺのハモリが適宜挿入されるという形態を取っている。

 まず注目したいのは舞衣ちんの巧みなボーカル・コントロール。Aメロでは繊細かつ哀切に満ちた歌声で主人公の「哀しみ」を表現し、サビの部分では凛とした歌声で主人公の前向きな意志を力強く歌い上げつつ、ラストでは少し力み(?)を抜いて余韻を残すような歌い方をしている。

 とりわけ、2番後のCメロはかなり難しいフレーズであるにもかかわらず、この曲の複雑なニュアンスを掴んでしっかり歌いこなしているのはさすがだ。微細な表現力という点で、彼女の歌唱力はまた一歩進化したのではないだろうか。

3・2 効果的な愛華のユニゾン

 また、目立たないが愛華マンによるユニゾンも、この曲に一定の効果を及ぼしている。サビ以外でこのユニゾンが入るのはBメロだが、Aメロにおける哀切に満ちた雰囲気をより力強いものに切り替える効果をもたらしているのだ。

 舞衣ちんと愛華のユニゾンについては以前も少し触れたことがあるが(こちらの記事を参照)、単に力強さがますだけでなく、ハーモニーにも似た独特の魅力がそこから生じるように感じられる。この不思議なユニゾンがもたらす効果は、今後さらに研究の余地があるのかもしれない。

3・3 ハーモニーの新機軸

 ボーカル面におけるもう一つの新境地は、あゆっぺによるハーモニーだ。MARIAのハモリは合唱団的というか、2人ないし3人でハモッても一声に聞こえるきれいな和声で定評がある。このハーモニーは今回もサビの部分で見事に展開されている。

 しかし、筆者が注目するのは、2番のAメロ部分のハモリだ。上記のようなキチンとした和声ではなく、互いの地声が生きているクシャッとした(?)微妙なハモリになっているのだ。ビートルズの「Come together」のハモリがこれに近いだろうか(以下の映像の2番を参照)。

 このように一声になりきらないハーモニーによって、曲に独特の陰影が与えられることになる。「哀哭の果て」の場合は、これによって「個人と社会のきしみ」が表現されていると言えるのかもしれない。こうしたハモリはこれまでのMARIAの楽曲であまり使用されていなかっただけに、今後、彼女たちの大きな武器になる可能性がある。

 以上、「哀哭の果て」のサウンド面における新機軸について検討してきた。最後に、この曲がMARIAにとってどのような意味を持っているのか、その可能性について筆者の妄想を展開することにしたい。

4 「哀哭の果て」から見えてくるもの

4・1 詞の世界の拡大

 今回の「哀哭の果て」によって、MARIAは自らの歌世界の射程を大きく拡げることとなった。歌詞について言えば、既に述べた通り「社会へのまなざし」が取り入れられ、「きしむ社会の中できしむ個人」というより普遍的なテーマに到達することとなった。

4・2 斜めのグルーヴの可能性

 サウンド面について重要なのは、「斜めのグルーヴ」を取り入れたこと。MARIAのこれまでの楽曲には、アップテンポの縦ノリ系の曲と「MABUDACHI」や「キラリ夏」に顕著な横ノリ系の曲という2種類のグルーヴしか基本的には存在しなかった。縦ノリの曲はポジティブさや攻撃性を、横ノリの曲は叙情性といったものを表現するには適している。だが、この2つのリズムで表現可能な領域は自ずと限られてきてしまう。

 しかし、そこに「斜めのグルーヴ」が加わることで、MARIAの音楽世界は格段に拡がることが予測される。縦ノリと横ノリのリズムだけでは表現しきれなかったより複雑な世界(例えば、ポジティブになりたいけどなりきれない主人公の屈折した心境であるとか、哀しみの果てにある静けさであるとか)が表現可能となるからだ。

 実際、今回の「哀哭の果て」はこの「斜めのグルーヴ」に乗って歌われることで、重い詞のテーマが昇華されて聞きやすくなると同時に、聴き手の心には後々まで余韻が残るという不思議な効果がもたらされることとなった。このように音楽的な表現の幅が拡がることで、今後彼女たちの作る作品世界もその拡がりと深みを増していく可能性がある。

4・3 静かだが着実なバンドの変化
・寝かされていた「哀哭の果て」

 ところで、今回のように新機軸に満ちた作品を発表したということは、MARIA自身にも何らかの変化が生じている可能性があることを物語っている。これはあゆっぺがラジオで言っていたことなのだが、この曲の原型は実はかなり早い時期にできあがっていたらしい

 しかし、「MARIAが歌うにはまだ早いかな」との理由でこれまで寝かせていたとのこと。あゆっぺがこのように判断したのは、やはりMARIAというグループがアイドル的な要素を引きずっていることに自覚的だったからであろう。

 MARIAのファン層の中核は、おそらく彼女たちと同世代から下にかけての男性と思われる。これらのファンの多くはMARIAに「アイドル的なもの」を求めているのが実情だ。彼女たちの楽曲に健全で前向きなものが多かったのも、こうしたファンのニーズをある程度念頭に置いてのことだったと思われる。

 あゆっぺが「哀哭の果て」の発表を遅らせたのも、多くのファンがMARIAのメンバーに求めるイメージ(健全で前向きな女の子)にこの曲の内容がそぐわないと判断したためではないだろうか。

・リアルで生々しい歌の世界へ

 しかし、それが今回のシングルに収録されたということは、MARIAが健全で前向きな「だけではない」世界についても歌う段階に入ったということを、メンバーもスタッフも認めたということになる。それはすなわち、MARIAが「脱アイドル化」の道を歩み始めたことを暗示しているように筆者には思えるのである。

 例えば、今回の「哀哭の果て」という曲には社会の現状と密接にリンクした内容が含まれている。そこで歌われているのは、従来のMARIAの楽曲に支配的だった理想主義的な楽園(「みんな」の世界)ではない。生身の人間がリアルに苦しんだり悩んだりしている世界である。

 ここから、彼女たちが従来の「(男性ファンによって)理想化された世界」(町田紀彦氏の描く世界などがその典型だろう)から「自分たちにとってよりリアルな世界」を歌う方向へと重点をシフトしようとしている、そんな推測が成り立つのである。

 実際、この曲に真に共感できるのは、従来のような男性ファンではなく、MARIAと同世代かそれよりやや上の女性なのではないか?また、表題曲の「さよなら大好きな人」も、女性ファンの取り込みが念頭に置かれているように感じられる(原曲も女性ファンが多かった)。

・「脱アイドル化」の道

 もちろん、現在のMARIAファンの大多数は男性であるわけだから、こうした男性ファンを一気に切り捨てるような極端な脱アイドル化が進むわけでないだろう。また、MARIA自身、「巨大な三歳児」(愛華)と「北海道のハイジ」(れいな)という二人の「子ども」をメンバーに抱えているわけであるから(笑)、彼女たちが「大人にも共感できるような世界」を説得力を持って歌えるようになるまでには、まだしばらく時間がかかりそうだ。

 しかし、今後「哀哭の果て」のような「よりリアルな世界を歌った深い曲」が増えていけば、MARIAに惹かれるファンの層も次第に変化していくことだろう。ライブの内容も、従来のように会場と一体となって盛り上がるよりは、より「聴かせる」方向へとシフトしていくかもしれない(実際、れいなはこの曲を「じっと聴いてほしい」とラジオで言っていた。最年少でもこの曲の内実についてはちゃんと理解しているようである)。

 まあ、これはあくまで筆者の妄想であって(笑)、実際にこうしたモデル・チェンジ(脱アイドル化)が生じているという確証はないわけだが、少なくともその音楽(「哀哭の果て」)を聞く限りでは、MARIAが新たな領域へと足を踏み出そうとしている強い意志は感じられた。

5 おわりに

 最近、MARIAの活動が「停滞」していると文句を言ったり悲観したりしているファンが少なくないようだが、彼らはMARIAの音楽をちゃんと聴いているのだろうか。「哀哭の果て」を聴けば、彼女たちの歌世界がより深まっていることはすぐ理解できるはずであるし、付録のライブDVDを見れば昨年よりも演奏や歌のレベルがアップしていることは明白であろう(特に愛華マンの成長が目につく)。そう、彼女たちは停滞しているどころか、着実に進化=深化しているのだ

 ファンであるなら、ライブの本数であるとか売上枚数と言った表面的な数値に惑わされるのではなく、ちゃんとMARIAの音楽に耳を傾けよう。事の本質はそこから感じ取れるはずである。一おっさんファンからの切なる提言でした。

………

 というわけで、今回もまた長くなってしまいました。最後はえらそうに説教モードになってしまいましたが、みんなと同じ不安を何とか打ち消したいという心理的な防衛反応からあのような書き方になってしまったのかもしれません(笑)。不快に思った方にはお詫びします。

 まあ私自身は、MARIAというグループやその音楽の素晴らしさについては、分かる人には分かるはずと基本的には楽観視しています。だから、あまりせっかちに結果を求めるのではなく、彼女たちの成長を長い目で見守ろうと思っています。

 さて、次回の更新は11月に入ってしまうかもしれません。一応、「Break out」と春ツアーのDVDについてレビューする予定ですが、5thシングルについて書きたかったことは今回の記事で書き尽くした気がしますので(笑)、アッサリと済ませたいと思っています。

 というわけで長々とおつき合いいただきありがとうございました。次回の記事までしばしごきげんよう。

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