偉大なるニュートラル(4) 「歌姫」に要求される資質
0 はじめに
先日、4月29日に日比谷野外音楽堂で行われた「NAONのYAON」のダイジェスト版を視聴する機会があった。そこで実夕は2曲(「Rose」と「シクベ」)歌っているわけだが、これらの曲を視聴して改めてシンガーとしての彼女の実力を再認識させられた。おそらく、大舞台で歌うのはZONEの解散コンサート以来であるにもかかわらず、全く臆することなく自分の歌世界を構築していたからである。
しかし、実力があるからといって必ずしも成功するわけではないのがこの世界の難しいところである。事実、ソロとなってから彼女のCDの売り上げはやや伸び悩んでいる。とりわけ、昼ドラ(『ママの神様』)の主題歌にもなり、メディアにもかなり露出したにもかかわらず、「茜」の売り上げが思ったほど伸びなかったことは、(この曲が自信作であっただけに)本人も所属・配給会社もファンもかなりショックを受けたのではないだろうか。
もちろん、そこには様々な要因が重なっているのだろうが、ここでは「個性的な歌声」と「個性的な人生」いう2つの視点からこの問題について筆者なりに考察することにしたい。
1 「歌姫」とは?
日本の女性シンガーのなかで特に大衆的な人気を獲得した歌い手のことを、我々は「歌姫」と呼ぶ。古くは美空ひばり、近年では宇多田ヒカルや浜崎あゆみといったシンガー達がそれに相当する。そして、実夕のあこがれの人である安室奈美恵もそうした歌姫の一人である以上、彼女のソロ活動の最終的な目標もこうした「歌姫」の一人になることなのだろうと推測することができる。
それでは歌姫になるためにはどのような資質が要求されるのであろうか?常識的に考えると「歌唱力」がその第一条件であるように思える。しかし、歴代の歌姫のなかで「圧倒的な歌唱力」を誇っていると言えるのは美空ひばりと、後はせいぜいドリカムの吉田美和くらいで、浜崎あゆみにしろ宇多田ヒカルにしろ、近年の若手の歌姫たちには必ずしも「歌唱力に秀でている」とは言い難いタイプも少なくない(ファンの皆さん、ゴメンナサイ)。
逆に、古くは五輪真弓や八神純子、最近ではMISIAといったシンガー達は、歌のうまさという点ではこれらの「歌姫」を凌いでいるものの、大衆的な人気という点ではこれらの「歌姫」たちにはるかに及ばなかった(大ヒットはあっても、人気は一時的なものにとどまったきらいがある)。
2 個性的な「歌声」
2・1 強烈な個性
それでは、「歌姫」になるためにはいったいどのような資質が要求されるのであろうか?筆者の念頭にある歌姫の第一条件は、「個性的な歌声」である。単にうまいだけではダメで、一聴してその人と分かる「強烈な個性」がその歌声から感じられなければならないのだ。
実際、歴代の歌姫のなかにはこうした「特異な歌声」の持ち主が多かった。筆者の世代で言えば、中島みゆきとユーミンこと松任谷由実のご両人がその代表格。若手世代では浜崎あゆみなどがその典型であろうか。(注)
(注)これらの歌姫に共通するのは、アンチ・ファンがけっこう多いことである。事実、あゆのあの金属音のような声がダメだという声はけっこう聞くし、中島みゆきとユーミンの熱狂的なファンは相互に排他的な(?)関係にあったような気がする(ちなみに筆者はユーミンの書く曲は好きなのだが、あの「猫なで声」はどうしても好きになれなかった(汗)。
ただ、「アンチ」のファンが多いということは、それだけその人の存在が大きいことの裏返しでもある。逆に言えば、アンチが少ない、誰にとってもすんなり受け入れられるような「耳障りの良い歌声」の持ち主というのは、かえって歌姫にはなりにくいのかもしれない。歴代の歌姫のなかに「癒し系」のシンガーが少ないことがそのことを物語っている。
2・2 「個性」と「普遍」のバランス
ただし、ここでいう「個性」とは単に歌声がエキセントリックであるということを意味しているのではない。歌声を通してその人の「素顔」や「内面」のようなものが透けて見えてくるような、そうした類のものを指している。だからどんなに歌がうまくても、そこに歌い手の個性(素顔)が感じられないようなシンガーは「歌姫」とはなりにくいわけだ。
かといって、あまりにも歌声に「我」が出過ぎてしまっても(カラオケで自己陶酔に陥っている人を思い浮かべていただきたい)聴き手は引いてしまうわけであるから、その按配は難しい。歌声に「個性」と「普遍」の絶妙のバランスが要求されるわけである。
3 波瀾万丈な人生
3・1 「成り上がり」の物語(~70年代)
「歌姫」となるために必要な第二の条件として、実人生が波瀾万丈なことが挙げられるだろう。思えば古のシンガーや歌姫達には、貧しかったり、周囲の人々から差別的なまなざしを浴びせかけられるような出自の人が多かった。
和田アキ子(彼女のことを歌「姫」と呼ぶことに抵抗がある人もいるかもしれないが、彼女が屈指の実力派シンガーであることは否定できない)は在日韓国人二世(注)であるし、山口百恵が非嫡出子(婚外子)であったことはよく知られている(当時は「片親」であることだけで、差別的なまなざしの対象となったのだ)。
そのように不遇な環境から這い上がって芸能界で成功するという波瀾万丈な「成り上がり」の物語に多くの人々が共感したのは、当時それだけ国民全体の生活が貧しかったことの裏返しなのであろう(だからこそ、歌姫達の成り上がりの物語に自分の実人生を重ね合わせて、共感を覚えることができたわけである)。
(注)ちなみに、芸能人に在日外国人や外国人とのハーフ/クオーターの子弟が多いのは、これらの出自を持つ人々が社会的に上昇するルートが、芸能界とスポーツ界くらいしか開かれていなかったからである。日本社会はそれだけ閉鎖的であったのだ。
もちろん、多くの人々が豊かさを享受するようになる1980年代以降になると、歌姫に要求されるライフ・ストーリーも変容を余儀なくされるようになる。上記のような「成り上がりの物語」(不遇な環境から成り上がって芸能界で成功し、すてきな伴侶を見つけて結婚・引退する)だけでは人々は満足しなくなり、さらに波瀾万丈なストーリーを要求するようになるのである。
3・2 新たな「歌姫」の物語~事例としての安室奈美恵~
・アメラジアンという出自からの飛翔
実夕が目標としている安室奈美恵は、まさにこの「新しい時代の歌姫」にふさわしいライフ・ストーリーの体現者であるのかもしれない。あまり語られることはないが、彼女(安室)は日本駐在の白人兵士(祖父)と琉球女性(祖母)との混血児である母親と、琉球系の父親との間に生まれたアメラジアン二世である(注)。
(注)アメラジアンとは、アジア国籍を持つ親とアメリカ国籍を持つ親との間に生まれた人々のこと。沖縄におけるアメラジアンが周囲の人々から長年、差別的な扱いを受けてきたことは良く知られている(S・マーフィ重松『アメラジアンの子どもたち―知られざるマイノリティ問題』集英社新書、第2部「沖縄におけるアメラジアン」を参照)。
もちろん、以前に比べればこうした差別待遇はかなり改善されつつあるらしい。しかし、彼女が芸能界を目指した背景(当然、そこには沖縄を離れて本土で活躍することが想定されている)には、もちろん本人の音楽的な嗜好性(ジャネット・ジャクソンへのあこがれ)もあるのだろうが、こうした「マイノリティー(沖縄人)のなかのマイノリティー(アメラジアン)」が置かれている社会的な状況が微妙に影を落としていることも否定できないように思われる。
けっして恵まれているとは言えない家庭環境に育ちながら、その才能を見出されて沖縄アクターズ・スクールに入学し、そこから芸能界入りしてしばらく紆余曲折があった後、大ブレイク。その人気絶頂期にダンサーのSAMとの結婚を発表。当時妊娠3ヶ月で、「できちゃった婚」なる言葉を社会に残し、産休に入る。
つまりこの時点までの彼女のライフ・ストーリーは、旧時代の歌姫達がたどった「成り上がりの物語」と見事に合致していたわけである。
・結婚後の波瀾万丈
しかし、安室奈美恵が新時代の歌姫たる所以は、結婚後の人生にこそ求められるのかもしれない。周知の通り、彼女は産休してわずか1年後の紅白歌合戦で電撃的に復帰するわけだが、そこで号泣してうまく歌えなかったことで強烈なバッシングを受けることになる。
おそらく、「結婚したら女性は子育てに専念すべきだ」と考える保守的な人々にとって、彼女の生き様(できちゃった婚・早すぎる現場復帰)は当時、不快以外の何ものでもなかったのであろう。彼女がバッシングを受けた背景には、こうした保守層の強い反感があったように思われる。(注)
(注)ちなみに、この年(1998年)の紅白の大トリで和田アキ子がマイクを使わずにアカペラで「今あなたにうたいたい」を歌い、会場の観客や視聴者からの大絶賛を浴びたが、今思うとこれは旧世代のシンガーである和田が新世代の歌姫である安室に浴びせた強烈なカウンター・パンチであったのかもしれない。
旧世代の女性シンガー達は、結婚して引退し子育てに専念するか、結婚を断念して仕事に専念するかの二つの選択肢しか(基本的には)なかった。そして、和田アキ子が結婚した後、病気で子どもが生めない身体になってしまったことはよく知られている(こちらを参照)。
そんな和田の目からすれば、安室の早すぎる復帰(「仕事も子育てもする」という旧世代には考えられなかった恵まれた人生の選択)とその未熟なステージング(プロ意識の欠如)は、二重に我慢のできないものであったのだろう。
子どもを産みたくても産めず、プロとして生きて来ざるを得なかった和田の絶唱は、「仕事と子育ての両立」(この時の安室がその象徴であったことは言うまでもない)を安易にもてはやす世間の風潮に対する、旧世代の女性達の違和感と怨念を代弁していたのではないか。どうもそんな気がしてならないのである。
安室の不幸はさらに続く。復帰した翌年の1999年に、実母が義弟(安室の叔父)に殺害されるという悲劇に見舞われる(注)。さらに2002年には夫のSAMと離婚。子どもの親権をめぐってSAMの実家との確執が噂されたのもこの時期だった(安室が親権を取り戻すのは2005年になってから)。
(注)この悲劇の背後に、現在も続く沖縄におけるアメラジアンの被差別状況を読み取る人もいるようだ。こちらの記事を参照。
実人生のこのような変転にともない、CDの売り上げも一時低迷する。当時、安室のことを「過去の人」と思うようになった人も少なくなかったはずである。
・不遇を乗り越えての再ブレイク
しかし彼女のすごいところは、ここから持ち直すところだ。おそらく、周囲に優秀なブレーンが集っているのだろう。音楽性をより本格的なR&BやHIP HOPへと移行させることで脱アイドル化をはかると共に、活動の範囲をアジアへと拡げることで国内の売り上げの低下をカバーした。歌やダンスに対するトレーニングも欠かさなかったようであるし、作詞にも挑戦するなどアーティスティックな活動の範囲も広がっていく。
こうした地道な努力と戦略的なプロモーション活動が実を結び、2008年には34枚目のシングル「60s 70s 80s」が9年ぶりにオリコンの首位を獲得。また、7月に発売されたベストアルバム『BEST FICTION』は、10代・20代・30代(年齢)をまたいだ史上初の三年代連続ミリオンセラーを達成することになる。
シングル・マザーとしての生活も順調で、彼女は今や「仕事と育児の両立」を体現している数少ない女性として同性(それも幅広い世代の)から憧れられる存在となっている。
3・3 ロール・モデルとしての「歌姫」
さて長々と安室奈美恵の(現時点までの)人生物語について記述してきたが、歌唱力という点ではそれほど抜きんでているわけではない安室が(ファンの皆さん、ゴメンナサイ)なぜここまで大衆的な人気を獲得しえたのかといえば、やはり彼女の生き様が聴き手の共感なり憧憬なりを引き起こしているからだと見なしていいだろう。
人々は単に歌だけを聴いているのではない。歌を透かして見えてくるその歌い手の実人生をも同時に享受しているのである。安室に限らず歌姫の中には、そのライフ・スタイル(生き様)が人々(とりわけ若者)のロール・モデルとなっているような人々も少なくない。
思えば80年代の歌姫であるユーミンの人気を支えていたのは、もちろん作品の力もあるだろうが、それ以上に彼女のおしゃれでクリエイティブなライフ・スタイルの力が大きかった気がする(注)。
(注)例えば、妻の仕事に理解を示しサポートする優しいダンナというイメージそのものの松任谷正隆と結婚し、結婚後もマイ・ペースでハイ・レベルな作品を発表し続けるユーミンの生き方は、既婚女性にそれまで求められてきた「良妻賢母」のイメージ(良き妻となって社会で働く夫を支え、賢い母となって子どもをきちんと育てるという専業主婦に求められるイメージ)に変わる新たな「女性像」を、人々に提供していたのではないだろうか。
そして2008年現在、安室奈美恵が幅広いファン層から支持を得ているのは、上記のように「仕事も育児もきちんとこなすシングル・マザー」という生き方が現在の多くの女性にとって理想となっていることを暗示しているのかもしれない。子どもさえいれば、もはやダンナは必要ないというわけだ(笑)
3・4 実人生は歌声に反映される
その一方で、歌い手の実人生がその人の歌に何らかの影響を及ぼすという側面もある。筆者は安室奈美恵のファンではないが、CMや歌番組などで流れてくる最近の彼女の歌を聴いていると、独特の「陰り」のようなものを感じてハッとすることがあった。
ここでいう「陰り」は、実生活での苦悩がそのまま歌に滲み出てくるという類のものではない(近年の中森明菜の酒焼けした声がもたらす怨歌(えんか)などはその典型)。そうした人生の苦悩に折り合いをつけることのできた者が醸し出す、ある種の悟りにも似たクールさとでも言うべきなのだろうか、そのようなものを彼女の歌やその歌っている姿から感じたりしたのである。
思えば、一時低迷していた安室の人気が復活してくるのも、彼女の歌にこうした「陰り」が込められるようになってからのことだった。おそらく、彼女の波瀾万丈な実人生の経験がうまく作品へと昇華されることで、あの若さにもかかわらず歌に陰影や深みのようなものが与えられ、それが多くのリスナーの胸を打つことになったのだろう。
3・5 「不幸」の必要性?
このように、歌い手と歌とその人の実人生は切っても切り離せない関係にある。そして安室奈美恵に限らず、歌姫と呼ばれるシンガー達にはドラマティックな人生を送っている人が多い。しかも、あまりこういう言い方はよくないのだが、その人の人生に悲劇的な要素が多いほど、その人のカリスマ性は増すように思われる。
例えば、本田美奈子は生前からその高い歌唱力を玄人筋から評価されていたが、彼女が「歌姫」として大衆的に認知されるようになったのは、皮肉なことにその「早すぎる死」がきっかけだった。ZARDの坂井泉水もまたその早すぎる死によって、ビーイング系のシンガーの中で唯一人、「歌姫」の殿堂入りを許されたのだと言えるのかもしれない。(注)
(注)シンガーの素顔(実人生)を見せない傾向にあるビーイング系の女性シンガーは、基本的に「歌姫」とはなりにくい条件下に置かれていることになる。
ここまで極端ではなくとも、「暗い出自」を背負っていたり、病に倒れたり、離婚や死別といった「重要な他者との別離(わかれ)」を経験することが、何らかの形でその歌い手のカリスマ性を増すことになる例は、安室を筆頭に枚挙に暇がない。いずれにせよ、このように「(不幸を伴った)劇的な人生」を送ることが「歌姫」になるための重要な条件であることだけは確かなようである(注)
(注)もちろん「歌姫の系譜」のなかには、竹内まりやのように順風満帆な人生を送りながらいい作品を出し続けるタイプも存在する。しかし、こうした「恵まれた歌姫」というのは全体としてみればやはり少数派なのではないだろうか。
4 「歌声」と「人生」のリンキング
以上、「歌姫」となるために求められる2つの条件(「個性的な歌声」と「波瀾万丈な人生」)についてこれまで考察してきた(もちろん、これ以外にも「有能なプロデューサーの存在」や「バック・アップ体制の充実」など様々な条件が考えられるが、それらは本人というよりも周囲の人々や環境の問題であるので、とりあえず今回の考察からは外すことにする)。
歴代の歌姫たちは、この2つの条件をうまくリンクさせている存在であると考えることができる。逆に言えば、これらの条件をそのどちらかしか満たしていない場合は、歌姫として認知されにくいということになるだろう(注)。
(注)筆者の基準では、「歌声」の背後にその歌い手の「生き様」が見えない場合も、その人の「実人生」が「歌声」を覆ってしまうような場合も、「歌姫」としては失格ということになる。
たとえば、筆者が(現時点では)MISIAを歌姫のカテゴリーから外しているのは、彼女の実人生がなかなか見えにくいからである。一方、松田聖子などは人生こそ波乱に満ちているものの、安室奈美恵のようにその人生経験が歌声に反映されているとはどうも思えない。その人生同様、どこか「作為」のようなものを彼女の歌声に感じてしまうのだ。
それでは、長瀬実夕というシンガーはこの基準に照らすとどのように評価されるのか。次節ではこの点についてさらに細かく考察することにしたい。
(以下、次号)
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