偉大なるニュートラル(3) 実夕(MIYU)のボーカルの特徴
1 ニュートラルな歌声
1・1 否定形でしか説明できない声?
ZONEのメンバーの中でMIYUがもっとも優れた歌唱力の持ち主であることは、衆目の一致するところであろう。しかし、彼女のボーカルの特徴を説明するのは実はけっこう難しい。他のメンバーなら、それぞれのボーカルの特徴を一言でまとめることが可能であるように思う。
例えば、MAIKOだったら「切ない」という形容辞がピッタリとくるし、TOMOKAなら「(ロック的な)力強さ」、MIZUHOなら「(トークとは正反対な)かわいらしさ」というタームでそれぞれのボーカルを説明することができるだろう。TAKAYOの場合、曲調によって表現を変えてくるのでその特徴を一言で要約することは難しいが、強いて言うなら「味がある」というところであろうか。
ところが、MIYUの場合、そのボーカルの特質を端的に表現することが困難なのだ。「うまい」ことは確かなのだが、TAKAYOほど「味がある」わけではないし、TOMOKAほど「力強い」わけでもない。MAIKOの「切なさ」ともMIZUHOの「かわいらしさ」とも異なる。とどのつまり「MIYUでしかない声」としか言いようがないのだ。
しかし、このように「~ではない」という否定形でしか説明できないということが、実はZONE時代のMIYUのボーカルの本質を突いているようにも思えるのである。もう少し詳しく説明しよう。
1・2 声質の分布図
・「ウェットorドライ」*「硬いor柔らかい」(図1)
ZONEのメンバーの声質を分類するために、「(声質が)ウェットかドライか」という軸と「硬いか柔らかいか」という軸をクロスさせて4つの象限をもつ分類図を作成したとする。この図にメンバーそれぞれをプロットしたとすると、以下の図1のようになると思われる。

もちろん、上記のメンバーの位置づけはあくまでも筆者の「主観」によるものであって、各人の声質を厳密に分析して数値化したデータに依拠しているわけではない。これらの図はあくまでも思考を整理するための「ヒューリスティックなイメージ」(注)であって、別の人が(その人の主観に基づいて)プロットしたら、メンバーのポジションもそれぞれ変わってくるだろう。
ただし、この作業を大勢の人に書いてもらってその図を重ね合わせたら、MIYUはやはり「原点」に近いところにプロットされるのではないだろうか。
(注)「ヒューリスティック(heuristic)とは、「発見をうながす」という意味である。例えば、声質的にMAIKOとTOMOKAが対照的なポジションにあることが図1から分かる。以前、この2人のユニゾンがどうもしっくり来ないことについて記述したことがあるが(こちらを参照)、ここから『声質が対照的な(プロットされた位置が離れている)シンガーはユニゾンの相性がよくないのではないか』という仮説を立てることができる。
さらに、このように対照的な声質の持ち主をハモらせると、それぞれの地声が生きた黒人的なハモリになるのではないか(例:武道館コンサートでの「さらりーまん」のサビにおけるMAIKOとTOMOKAのハモリがその典型)。逆に、TAKAYOとMIYUのように声質が似た者どうしのハモリは、二つの声が一声に聞こえる西洋の合唱団的なハモリになるのではないか、等々、図1からさまざまな仮説を引き出すことができる。
このように図1のようなヒューリスティックなイメージは、人々の思考を展開させて様々な「仮説」や「発見」を促すという、重要な機能を果たすことになるわけである。
・「ウェットorドライ」*「太いor細い」(図2)
また、分類軸の一方を「硬いか柔らかいか」に代えて「細いか太いか」にしてメンバーをプロットしたものが図2である。ここでもMIYUは原点に近い位置にプロットされるように思われる。分類軸を別のものに代えたとしても、おそらく同じような結果が出てくるだろう。
さらに、これらの分類図にZONEのメンバー以外のシンガーをプロットしたとしても、MIYUはやはり原点近くにプロットされるのではないだろうか。

・ニュートラルな歌声
ここから、MIYUのボーカルの特質の一端を引き出すことができるだろう。つまり、彼女の声質は非常にニュートラルな(中庸な)わけである。上記の図でいえば、どのような分類軸をとっても彼女は原点近くにプロットされる声の持ち主なわけだ。彼女のボーカルが「否定形」でしか説明がつかない理由もおそらくここから来ているのだろう。
しかしこうした「中庸さ(程の良さ)」は、ポップス(流行歌)を歌うシンガーにとって重要な資質であると言えるのかもしれない。声質にクセ(偏り)がないということは、そのボーカルが万人受けする可能性を示唆しているわけだから。実際、MIYUの声質に拒絶反応を示す人はほとんどいないであろう。
また、ZONEの楽曲が幅広い世代の人々に支持された理由の一端も、彼女のボーカルのこうした「程の良さ(=クセのなさ?)」に求めることができるようにも思われる。
2 歌唱力の内実
とはいえ、「声質が万人受け」するだけではシンガーとして十分でないことは言うまでもない。聴き手の心を掴むためにはそれ以上の更なる「力」が要求されることになる。それが「うまさ」や「歌唱力」と評されるところのものなのであろう。
MIYUの歌唱力の詳細については、竹内美保さん(『ここから ZONE』の著者にして、ZONEの良き理解者)を筆頭に、既に多くの人が様々な仕方で語っている。例えば、以下のブログなどは彼女のヴォーカルの特徴を実に簡潔に分かりやすくまとめているように思う。これらの記述を参考にしたうえで、MIYUの歌唱力のうち筆者が特に重要と見なすものを二点、挙げることにしたい。
2・1 バランスの良さ
・バランスの取れた発声法
MIYUのボーカルを聴いて筆者がまず感心するのは、その「バランスの良さ」である。彼女の場合、たとえばホイットニー・ヒューストンのように圧倒的な声量を持っているわけでもなければ、マライア・キャリーのように7オクターブの声域を持つわけでもない。
しかし、それでも彼女の歌声が聴いていて実に心地いいのは、その発声方法が鍵を握っているように思われる。すなわち、(声学的に正しいかどうかは分からないが)彼女の場合、ノドと腹式をそのどちらに偏ることなく、バランス良く使って発声しているように聞こえるのだ。だから、(低音にこそ若干の弱点はあるものの)高音に関しては無理なく声が伸びる。まるでミドル・レンジを歌っているかのように、高音部もナチュラルに歌いこなせるのである。
また、エンドトーンのビブラートも実に自然で、初心者の稚拙さもベテラン歌手にありがちな鼻につく技巧も感じさせない。このバランスの良さがある種の「心地よさ」に繋がっているのであろう。(注)
(注):ZONE時代のMIYUは、アップテンポの曲からスロー・バラード、フォーキーな曲からハードロック・R&B、果てはジャズやゴスペルに至るまで、実に多様なタイプの曲を歌いこなしているが、彼女のボーカルのこのような「全方位性」も、上記の発声方法によって可能となっているのであろう。
すなわち、ノドと腹式をバランス良く使って発声しているからこそ、ノドを多用するフォークやロックにも、腹式を多用するブラック・ミュージックにもそれなりに対応できる。そんな風に思えるのである。
もっとも、こうした「器用さ」は「器用貧乏」と紙一重であるだけにいろいろと問題もはらんでいるわけだが、これについては後で少し触れたいと思う。
・ライブでの安定性
こうしたバランス感覚はとりわけライブにおいて顕著に発揮される。ZONEのライブに参加したことがある人はよくお分かりかと思うのだが、(ボーカル上の)相方のTAKAYOやTOMOKAは、ライブで発声や音程が不安定になることがしばしばあった(TAKAYOは高音部が、TOMOKAは低音部がそれぞれ不安定になりがちだった)。バッキングに回ることの多かったMAIKOやMIZUHOについても同様である。
もっとも、こうした現象は彼女たちに限ったことではない。ライブでは緊張や高揚感が伴うものであるし、動きながら歌うケースも少なくないから、どんなシンガーでもライブではある程度は発声に「ブレ」が生じてくるものである。然るにMIYUの場合、こうしたブレが極めて少ない。ライブでもCDとほとんど変わらぬ正確なボーカルを(いともあっさりと)披露するのである。
大勢の観客を前にしても動ずることのないその恐るべき「強心臓ぶり」も含めて(本人の弁によると、いつも緊張しまくっているそうだが…(笑)、ライブでのこうした類い稀な安定性は、もちろん持って生まれた資質もあるだろうが、それ以上に小さな頃から歌い続けてきた経験と日々の訓練の賜なのだろう。(注)
(注):ただし、ライブにおけるボーカルの「ブレ」や「揺らぎ」は、必ずしもネガティブに作用するだけではない。そうした「不安定さ」が、かえってライブのダイナミズムをオーディエンスに実感させる場合もある。ライブにおけるTAKAYOの「空想と現実の夜明け」での大暴れなどはその典型だろう。
また、「卒業」や「証」のAメロにおけるTOMOKAのやや上ずり気味なボーカルも、ライブにおける「前のめり的な疾走感」を感じさせる効果を上げていたように思う(TOMOKAの場合、彼女の声域にジャスト・フィットしないTAKAYOの低音パートを引き受けざるをえないケースが多かったから、少々気の毒ではあったが)。
言い換えればZONEの場合、ブレや揺らぎをはらんだTAKAYOやTOMOKAのボーカルがライブのダイナミズムを演出する「遠心力」として機能し、MIYUの安定したボーカルがライブに秩序を与える「求心力」として機能していたと言えるのかもしれない。
2・2 雰囲気を設定する能力
MIYUのボーカルを特徴付けているものとして挙げられる第二の、そしておそらく最大のものは、その「雰囲気設定能力」であろう。ZONE時代の楽曲を思い出していただければよくお分かりかと思うが、彼女は2番後の間奏が終了した後、サビやCメロをソロで歌うケースが多かった(「証」「卒業」「笑顔日和」などがその典型)。
ギター・ソロなどで間奏が盛り上がった後、ほぼ無伴奏の状態でMIYUが歌うと、それまでの雰囲気がガラッと一変する。そこで時間が止まるというか、場面が凝結するというか、そのような効果がもたらされるのである。このように楽曲の雰囲気を一声で決めてしまう力こそ、MIYUのボーカルが持っている最大の武器ではないかと筆者は思うのである。
・楽曲の色彩を規定する?
この「雰囲気設定能力」についてもう少し詳しく説明することにしよう。MIYUの歌を聴いていると、楽曲の色彩が非常に鮮明に伝わってくる。
例えば、「白い花」や「風のはじまる場所」では北海道の純白の風景が浮かび上がってくるし、「secret base~君がくれたもの~」では夕方の黄昏(たそがれ)色の風景が、「glory colors~風のトビラ」ではセピア色の学校の風景が、彼女のボーカルから浮かび上がってくる。
最初は、PVのイメージが筆者の脳内に刷り込まれているせいかとも思った。しかし、PVになっていない曲、たとえばMIYUが単独で歌っている「栄冠は君に輝く」でも、5月の新緑のイメージがくっきりと浮かび上がって来るのだから、「刷り込み効果」だけでは説明がつかない。やはり彼女のボーカルの力も働いていると見なしていいだろう。
・雰囲気設定能力≠表現力
ただし、ここでいう「雰囲気設定能力」は、いわゆる「表現力」とは必ずしもイコールではないことには注意を喚起しておきたい。
楽曲、とりわけ歌詞によって提示される世界観を歌によって表現する能力のことを「表現力」であるとするなら、「表現力があるシンガー」とは、楽曲の内容に合わせて自分のボーカル表現も変化させることのできる歌い手ということになるはずだ。この定義に従うなら、MIYUは必ずしも「表現力に優れている」とは言い切れなくなってくる(少なくともZONE時代には)。
というのも、彼女は確かに楽曲の雰囲気や色彩を決定する力は持っているものの、その色彩のあり方がともすれば単調になりがちだった。つまり、どんな曲を歌ってもどこか似たように聞こえてしまう(良く言えば、「MIYU色」に染まってしまう)のである。
・TAKAYOの卓越した表現力
おそらく「表現力」に関して言えば、TAKAYOの方が一枚上手だったのではないだろうか。確かに(声量や音域の広さといった意味での)「歌唱力」はMIYUの方が優れていたものの、TAKAYOの場合、楽曲に合わせて自らのボーカルをコントロールしながら、その曲の世界観を巧みに表現することができた。
例えば、ZONEの代表曲であるシクベの世界観を本当に決定していたのは実はMIYUが歌うサビの部分ではなく、1番のAメロ(「出会いはふとした瞬間~本当はとてもとてもうれしかったよ」)、すなわち、あの何とも言えないノスタルジックなTAKAYOの歌唱であったように思う。
その一方で「空想と現実の夜明け」のようなハードな曲では、とてもシクベを歌っていた人物とは思えない(笑)攻撃的なシャウトをかましてみたりする。その他、「GOOD DAYS」や「H・A・N・A・B・I~君がいた夏」でのボーイッシュで飄々(ひょうひょう)とした歌唱や、「世界のほんの片隅から」でのどこか沈痛な歌声など、曲の世界観に合わせて実に巧みにボーカルをコントロールしていたことが(今となっては)よく分かる。(注)
(注)MIYUの場合は、ここまで自らの歌唱を変化させることはなかったし、おそらくそれを求められてもいなかったのだろう。
・MIYUとTAKAYOのボーカルの相乗効果
もっとも、TAKAYOの「表現力」が映えたのも、MIYUの「雰囲気設定能力」があってのことであるといえる。絵画に例えるなら、MIYUのボーカルが画面全体の背景色(雰囲気)を決定し、TAKAYOがより詳細な楽曲のイメージ(主題)を書き込む、という按配である。
主題画像と背景がクッキリとした対照性を示さなければ、画面全体がぼやけてしまう。その意味でZONE時代のTAKAYOとMIYUのボーカルは、互いを引き立たせ合いながら楽曲に「奥行き」や「深み」のようなものを与えていたのだと言えるのかもしれない。(注)
(注):そして、TAKAYO脱退後の新生ZONEが苦闘した理由の一つとして、ボーカル面におけるこうした「対照性のバランス」をなかなか獲得することができなかったことが挙げられるように思う。
MAIKOとMIZUHOはそれまでバッキングに回ることが多かったからMIYUのボーカルの対抗軸になる力はまだなかったし、新メンバーのTOMOKAはロック的なパワーはあっても、TAKAYOのような繊細な「表現力」は(この時点では)まだ持ち合わせていなかった。
TAKAYOの抜けた「穴」をMIYU以外のメンバー達で埋めることができるようになったのは、ラストシングルの「笑顔日和」が初めてだったのではないだろうか。そして、その「新しいボーカル・バランス」をそれ以上発展させる時間が、新生ZONEには(悲しいことに)残されていなかった。
3 MIYUと実夕
3・1 技巧面の成長?
以上、MIYUのボーカルの特質について筆者が重要だと思う点をいくつかまとめてみた。もちろん、上記の記述はZONE時代のMIYUについて述べたものであって、ソロになってからの彼女のボーカルは考察の対象となっていない。しかし、筆者がシングルやアルバムを聴いてみた限りでは、(ZONE時代の)MIYUと長瀬実夕のボーカルの間に根本的な差異は存在していないように思われる。
もちろん、「技巧」という点でかなり進化しているであろうことは、素人の筆者の耳にも感じられた。たとえば1stアルバムに収録された「GAME」という曲が典型的なのだが、エンドトーンの処理の仕方がかなり大人っぽくなっていたり(ため息をつくような感じ?)、正規の音程を意図的に下にずらして歌ってみたりするなど、「表現力」のアップが図られていることが分かる。ビブラートの仕方も、ZONE時代よりかなり細かになっているようだ。
しかし、彼女のボーカルの本質的な特徴にはほとんど変化はないのではないだろうか。例えば、上記の「GAME」における音程のずらし方についても、中島美嘉のようにナチュラルに半音の半分下がってしまう(注)類のものではなく、「バランス良く」意図的に外しているわけであって、けっして音程の「破綻」を予期させるものではない。
(注)これを「クォーター・フラット」と呼ぶらしい。ジャズ・ミュージシャンにして音楽評論家の菊地成孔氏の弁。出所は、永江朗『新・批評の事情 不良のための論壇案内』原書房、147頁。)
3・2 MIYUの延長線上にある実夕のボーカル
また、彼女特有の「雰囲気設定能力」についていえば、ソロになってますます磨きがかかったようにも感じられる。とりわけ2ndシングルの「Rose」は、実夕のこの能力がいかんなく発揮された曲だったのではあるまいか。筆者はこの曲を聴く度に、深紅の風景が頭に浮かんでくるのである。3rdシングルの「茜」も同様に、実夕の歌唱はジャケットのセピア色の風景を見事に表現していた。
したがって、現時点の長瀬実夕のボーカルは、ZONEのMIYUの延長線上にあると言っても差し支えあるまい。そしてそのことが彼女のソロ活動にどのような影響を及ぼすのか。次章以降ではその点について別の角度から考察することにしたい。
(以下、次号)
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