偉大なるニュートラル(2) 事の発端
前回の記事から気がつけば3ヶ月も空いてしまいました…。けっして死んでいたわけではありません(笑)。この間、草稿はずっと書き続けていたのですが、うまくまとまらずに七転八倒しておりました。
今回のお題は、前々回の記事の続編で、実夕のボーカルが主なテーマとなっております。と言っても、書いているうちに話がどんどん膨らんでいき、ZONEだけでなく安室奈美恵から果ては和田アキ子まで飛び出す壮大なストーリー(=与太話?)となってしまいました。
まあ、基本はZONE論ですのでご安心を。やたらと長いので、時間のあるときにでも、ゆっくり目を通していただければ幸いです。ではどうぞ。
1 はじめに、あるいは事の発端
・のめり込めない?
今回のお題は「実夕のボーカル力(りょく)」についてであるが、この記事は筆者の次のような経験がそもそものきっかけとなっている。
当ブログでは、アルバムやシングルのレビューを書く際には、そのアーティストの作品に深く沈潜する(要は徹底的に聞き込む)ことを基本方針としている。今回もその方針に従って、実夕のシングルや1stアルバム『Gateway to Tomorrow』の楽曲を深く聞き込もうとした。しかし、どうにものめり込めない(笑)。
客観的に評価すれば、歌唱力という点でも個々の楽曲の完成度という点でも、実夕の作品はMARIAやTakayoのそれを明らかに凌駕していた。にもかかわらず、彼女の歌う曲はどうも筆者の心にあまり響かないようなのである。
最初は個人的な好みの問題かと思っていた。現時点で筆者がもっとも思い入れのあるアーティストはMARIAであり、彼女たちにかまけて実夕(の作品)に没入するだけの十分なエネルギーが確保できないせいではないか、と。
また実夕のアルバムに収録された楽曲群は、MARIAやTakayoのそれと比べると、コンテンポラリーな(=今風の)ものが多い。だから、音楽的な嗜好性が1970年代で止まっている筆者のような年寄りの耳にはうまく馴染まなかったのだ…。当初はそんな風に思っていた。
・「茜」の謎
しかしその後、3rdシングルの「茜(あかね)」を聴いて、どうもそれだけではないのではないかという気がしてきた。
周知の通り「茜」という曲は自分を支えてくれた両親への感謝の気持ちを歌にした作品であるが、過去の思い出を紡ぐかたちで詞が展開されていることもあり、非常にノスタルジックな仕上がりとなっている。フォーキーな曲調といい、アコースティックなアレンジ(特に間奏におけるバイオリンの音色が「懐かしさ」を醸し出すのに一役買っている)といい、まさに筆者好みの作品であると言えるだろう。
したがって、本来であればこの曲は筆者の心にジャスト・フィットして然るべきであるのに、やはりどこか「物足りなさ」を感じてしまったのである。
この「物足りなさ」は一体どこから来ているのだろう?今回の記事は実夕について云々することよりも、上記の謎を筆者なりに解明することを主な目的としている。したがって、実夕ファンの方には内容が物足りなく感じられたり、場合によっては不快感を引き起こす記述も含まれてしまっているかもしれない。その点については予めお詫び申し上げておく。
また、(このブログでは何度も書いていることだが)筆者は音楽理論についての知識が全くないど素人であるため、以下の記述には専門的な知見からすれば的外れな内容も多々含まれているかもしれない。その点についてもどうかご容赦いただきたいところである。
(以下、次号)
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