MARIA4thシングル・レビュー(8) MARIA版「旅立ちの日に」の評価
4thシングル・レビューの第8回目です。今回の記事は、「旅立ちの日に」のMARIAヴァージョンの評価についてです。途中で「儀式」について少し専門的な話が挿入されますが、たとえば、スタジアムでのスポーツ観戦や大ホールでのコンサート等に参加したことのある方は、内容が理解しやすいかと思います。
ちなみに、こうした議論は宗教学や社会学・人類学といった分野ではよく知られているお話しです。管理人はけっしてアヤシイ宗教の関係者などではございませんので(笑)、どうかご安心下さい。
では、本文へどうぞ。
8 MARIA版「旅立ちの日に」の評価
8・1 「合唱」という集合儀礼
・越えられない「合唱」の壁
では、「旅立ちの日に」のMARIAヴァージョンは、オリジナル(合唱ヴァージョン)を超えたものになっているのか?残念ながらその答えは「ノー」と言わざるを得ない。とりわけ、実際に合唱に参加して涙を流しながら歌ったような経験がある人にとっては、どうしても物足りなく聞こえてしまうだろう。
しかし、これはけっしてMARIAの力不足だけが問題なのではない。わずか6人のメンバーで奏でられるバンド・サウンドと、何十人もの人々が集まって達成される「合唱」とでは、集合的なエネルギーという点でどうしても差が出てしまうのである。
「合唱」という行動は一種の「儀礼的な活動」だと考えることができる。「儀礼」や「儀式」というと何かヤバそうに聞こえるかもしれないけど(笑)、実は我々の日常生活に様々な形で埋め込まれているある種普遍的な活動なのだ。
以下、儀式や儀礼が個人や社会にとってどのような意味を持っているのか、社会学的な説明を試みることにしたい。
・「儀式/儀礼」の社会的機能
平凡な日常生活が続いていると、我々は何となくマンネリ化し、無気力な状態へと陥りがちである。こうした不活性な状態を、民俗学者は「ケガレ(気が枯れた状態)」と呼ぶ。人々の間でこうした状態が蔓延するようになると、社会全体も活気を失い、やがては社会の存続自体が危ぶまれる事態となりかねない。
そうならないためにも、こうした「気枯れ=汚れ」を祓って、ふたたび日常に気を充溢させてやる必要が出てくる。そのように人々に気を注入し、社会を再活性化させるための営みが「儀式」や「儀礼」と呼ばれる活動である。
では次に、儀式の場で何が生じているのか見ていくことにしよう。
儀式に参加する人々は、単一の注目の焦点(それは十字架や仏像などの宗教的紋章だったり、司祭や巫女などの宗教的権威を体現する人物だったりする)へ向けて、一定のパターン化された行動(跪いて頭を垂れたり、経文を唱えたり、儀礼的なダンスを踊ったり、等々)を取ることを要請される。
こうした儀礼的行為が多くの人々によって繰り返されていくうちに、その場は次第に神聖なエネルギーで満たされ、参加者はある種の「高揚感」を覚えるようになっていく。このような集合的なエネルギーの分け前に預かることによって、個々人の衰弱していた「気」も再活性化されることになるわけである。
またこうした儀式に参加していると、他者との間にある心理的な壁が取り払われ、周囲の人々との強い連帯感や仲間意識を覚えたり、さらにはそれが昂じて一種のトランス状態に陥るようなケースも珍しくない。(注)
(注)このように、個人を越えた大いなる存在と自分が一体化したときに感じるある種の神秘的な経験を、社会学者の作田啓一は「溶解体験」と呼んだ。
このように儀式の場で人々の社会意識(他者との連帯感・一体感)が活性化され、エネルギーと道徳意識を充填された個々人が日常生活に戻ることで、社会全体の秩序やエネルギーも再び活性化される…。社会と儀式との間にはこのような循環的なメカニズムが作動しているわけである。
・「合唱」という集合儀礼
以上の観点を踏まえれば、「合唱」という営みが「儀礼的な活動」そのものであることがお分かりいただけるであろう。具体的にはこういうことである。
合唱の参加者は、単一の注目の焦点(=指揮者)へ向かって同じ行動パターンを取る(息を合わせて同じ歌を歌う)。こうした活動(「練習」という小さな儀式)を重ねていくうちに、次第に参加者の間で連帯感や仲間意識が高まっていく。
そして、いざ本番の合唱で各自の声がピタッと合ったとき、参加者は何とも言えない高揚感と(集合的)エネルギーを獲得することになる。感動のあまり涙が出てきたりするのも、より大きな存在(=自分の所属している集合体)と一体化したという「溶解体験」から来ているのだろう。
「旅立ちの日に」を涙しながら合唱した経験がある人は、上記のようなある種「超越的」とも言える経験をしてきているわけである。こうした経験をした人からすれば、わずか6名で奏でられるMARIAのヴァージョンが物足りなく感じられてしまったとしても、それは致し方のないところなのかもしれない。
8・2 MARIAヴァージョンから見えてくるもの
・MARIAの本質
とはいえ、MARIAも大健闘していることは間違いない。少なくとも、原曲の単なるコピーの域を脱していることは確かである。
おそらく初めてこの曲を聞いた人は、原曲が合唱曲であったことなど想像もつかないのではないだろうか?。そしてそれこそがMARIAのオリジナリティーの証であり、彼女たちがこの曲を自分のものにしていることの証なのである。
それに、元々「旅立ちの日に」という曲自体がMARIAの本質に近いということもある。実際、詞もメロディーも彼女たちのオリジナルであっても少しも不思議ではない、健全で前向きな内容だ。
ということは、このような「健全で前向きな」楽曲、別の言い方をすれば「普遍的に良い」楽曲こそ、今後もMARIAが追求していくべき音楽であるということになる。
短期的な売上アップのために奇を衒った音作りに走るのではなく、あくまでストレート・アヘッドに「普遍的に良い曲」を作り、人々に提供していく。そんな方向性を目指すべきであることが、この曲からうかがえたりするのである。
・アップテンポの「旅立ちの日に」?
なお、いくつかのブログでは、「もう少しアップテンポのアレンジにした方が良かったのではないか」という意見も見られた。「ゆらり桜空…」がミディアム・バラードだったのだから、この曲はもう少しロックっぽくても良かったのではないかというわけである。
確かに以下のようなアレンジのMARIAヴァージョンも聞いてみたかった気はしないでもない(笑)
しかしその反面、他のカバー・ヴァージョンとの差異が見えにくくなってしまった可能性があるし(注)、それを避けるためにさらにアップテンポにしてしまうと、今度は件のMARIAらしさ(爽やかなせつなさ)が失われたり、原曲のファンから色物扱いされたりしたかもしれない。
(注)3月5日にredballoonというロックユニットが「旅立ちの日に」のカバーを出すのだが、サビの部分を試聴したところ、上記のハレンチ☆パンチのヴァージョンと同じようなテンポの曲になっていた。
MARIAがアップテンポにしなかったのは、同じソニー・ミュージックからの配給ということもあり、redballoonのヴァージョンと雰囲気が被ってしまうことを避ける狙いもあったのかもしれない。カバーにおける立ち位置戦略というのは、なかなか難しいわけである。
・原曲の雰囲気を残すことのメリット
また、原曲の雰囲気をかなり忠実に残しているが故に生じるメリットというのも存在する。カラオケなどでこの曲をリクエストした場合、学生時代に合唱した経験のある人たちを巻き込みやすくなるのだ。
しかも、若い人達の間にはかなり浸透している曲であるので、男女やグループの垣根を越えた繋がりが(合唱に加わるという形で)形成される可能性もあったりする(注)、原曲と雰囲気が違いすぎたら、そうしたことは困難になるだろう。
(注)以下は、YouTubeに投稿されていた「旅立ちの日に」で最も好きなヴァージョン。学生さん(大学生?)のバンドの「卒業Live」からの一コマなのだが、オーディエンスが自然発生的に「合唱」で参加している。MARIAのライブでも、こんな感じで「旅立ちの日に」をみんなで歌えたら最高なのだが…。
ただ、会場にいるのは9割方男性ファンだろうから、男声パートばかりが目立つ野太い合唱になってしまいそう(笑)。そうならないためにも、女性ファン(特に、アルト・パートを歌える人(笑))がもっと増えて欲しいところである。
このように考えていくと、今回のMARIAのカバーは「原曲の雰囲気を残しつつ、自らの独自性も確保する」という困難な課題にうまく対処した絶妙のアレンジであったようにも思えてくる。だとすれば、この点についてもやはり明石さんの卓越した手腕を讃えるべきなのであろう。
(以下、次号)
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