Takayo『My Best Friends』再考(5) Takayoのボーカルについて
4 Takayoのボーカルについての一考察
さて、最後に2ndアルバムの全体的な印象と、そこからうかがえるTakayoというアーティストについての筆者なりの考えをまとめておくことにしたい。
4・1 バラードの表現力のアップ
まず改めて認識させられたのは、Takayoの「声」の力。これについては1stのレビューでも触れたが、やはり彼女はミドル・テンポの楽曲やバラードが映えるように思う。とりわけ、「Rain」や「Angel」のようなフォーキーな楽曲を歌わせた時の説得力は、同世代のシンガー達と比較してもかなりのものなのではないだろうか?
また、ZONE時代と比べて明らかに表現力がアップしているようにも感じられる。これについてはもちろんボイトレの効果もあるのだろうが、それ以上に自作曲(MICAジョンの助けを借りてはいるものの)を歌っていることの影響が大きいように思う。それはこういうことだ。
・進化=深化の背景
ZONE時代の楽曲は、町田先生を初めとする楽曲提供者がいかにTAKAYOや他のメンバーたちのことを考えて作品を作ったにせよ、ZONEというバンドやそのメンバー達の既にあるイメージやキャラクターに沿うよう、あらかじめ設えられた側面があったことは否定できない。
このため、特にTAKAYOのような神経質な?歌い手にとっては、(どんなにお気に入りの作品であっても)どこか「借り物の曲」を歌っているような違和感が拭えなかったものと推察される。(注)
(注)竹内美保さんの『ここから ZONE』にも、曲と自分との微妙な距離感(「自分の気持ちが追いついていなかった」「曲がかなり前に行っていた」etc.)について語るTAKAYOの言葉が残されている(313~315頁を参照)。
これに対してソロとなってからの作品は、たとえ他者から提供された曲であっても、基本的には今の自分にジャスト・フィットするものをTakayo自身が選び、そして歌っている。まして自作曲の場合は、彼女自身のリアルな経験や思いが込められているわけだから、歌にも自ずと力と深みが与えられることになるだろう。
2枚のアルバムから筆者が感じたTakayoのボーカルの進化=深化は、このような環境の変化が大きく作用しているわけである。
4・2 新しいジャンルへの挑戦とその効果
それから、「Blue Star☆」のようなダンサブルなナンバーも結構いけることが分かったのは、今回、2ndを聞き直してみての大きな収穫だった。このあたりは、1stでいろいろな楽曲に挑戦したこともプラスに働いているのかもしれない。
新しい歌唱法で正しく歌いこなすことに精一杯の感があった1stでの歌唱に比べ、2ndでは歌い方にも余裕があり、そのこと(肩の力が抜けたこと)がこの曲のグルーヴとうまくかみ合ったとも考えられるからである。
また、もともと定評のあったフォーキーでしっとりとした楽曲に加えて、この手の軽快なミディアム・ナンバーが加わることは、彼女の表現の幅を拡げることになるわけだし、ライブの組み立てもしやすくなるだろう(特にこの曲の場合は、アコースティックなセットでも歌えると思うから、その効果は絶大だ)。
その意味でも、「Blue Star☆」はTakayoにとって大きな意味を持つ1曲だと思う。
4・3 ロック・ボーカリストとしてのTakayo
・「空想と現実」のライブ・ヴァージョンについて
ただし、アップテンポの(ハード)ロックについては、Takayoのボーカルはまだ発展途上にあるように思う。実は、1stのレビューを書いた時点では、Takayoの声は基本的にはロックにはフィットしないと筆者は思っていた。
しかし、なぜ現時点でこの見解を少し修正したのかというと、前から聞きたかった2003年のアストロ・ツアーのライブ音源を聞く機会があったからである(この音源は以前ニコニコ動画にアップされていたが、現在では削除されてしまった)。
この件についてはfutashizukuさんへのレスにも書いたが、「空想と現実の夜明け」はTAKAYOのライブ・バージョンの方が断然スゴイというオールド・ファン(ゴメンナサイ)の見解について、TOMOKA推しの筆者は釈然としないものを感じていた。CDバージョンを聞く限りでは、たしかにパンクっぽい歌い方に魅力は感じられるものの、迫力は武道館のTOMOKAバージョンの方がずっと上に思えたのである。
そもそもライブとCDを比較すること自体が間違いなのだが、当時、アストロ音源を聞く機会がなかった筆者はそうやって推測するしかなく、そこからロッカーとしてのTAKAYOを評価する声は、彼女の脱退を惜しむファンの「後付けの美化」によるものではないのかと、失礼ながらこの時点では思っていたわけである。
ところが上記の音源を聞いて、オールド・ファンの評価がけっして誇張ではないことが分かった。この音源は、ZONEファンの間では有名なSHIBUYA-AXでのライブのもので、「空想と現実」を歌っている最中、特効によって警報装置が作動し、スピーカーが落ちてしまうというトラブルがあった時のものである。
当然、演奏している本人たちは気づいていないわけだが、スピーカーが作動していない状態にもかかわらず、TAKAYOのシャウトが会場全体を支配してしまっている。このライブがファンの間である種「伝説化」されるのも頷ける、ド迫力のステージだった。(注)
(注)ただ個人的には、TAKAYOの根本にあるのはやはりロックよりはフォークなのかな、という気もする。「空想と現実」での歌唱も、彼女がモデルとしているのはパンクよりも、小さい頃から聞き慣れてきた吉田拓郎だったのではないだろうか。
たとえば、拓郎の以下の音源などを聞くと、シャウト(というか、ここまで来るともはや「がなり」だ(笑))の仕方にどこか相通じるものがあるように感じられる(まあ、「人間なんて」のライブ音源は当然、拓郎ファンの父親経由で彼女も耳にしていただろうから、TAKAYOが無意識のうちに拓郎の歌唱法をなぞっていたとしても、ちっとも不思議ではないのだが)。
ちなみに、拓郎が世に知られるきっかけとなった1971年の中津川フォークジャンボリーでは、彼が出演していたサブ・ステージのPAがトラブルで故障し、マイク無しで2時間近くも演奏を続けたそうである(こちらを参照)。何やらSHIBUYA-AXでのトラブルを想起させて興味深い。
・環境と内面の変化?
ただ、今のTakayoはこうした歌い方はもうできないような気がする。一つは、正統なボイス・トレーニングを受けてしまったこと。いったん正しい歌い方を覚えてしまうと、こうした無茶な(笑)発声は怖くてなかなかできなくなるのではないだろうか。
二つめの理由は、Takayoが曲作りを始めたこと。曲作りをするとどうしても自分の内面と対峙する時間が長くなるから内省的になるし、できあがった曲も丁寧に歌いたいという気持ちが強まる。となると、以前のように豪快に歌い飛ばすことが次第に困難になっていくと想定されるのである。(注)
(注)実は、これもTakayoのお気に入りのアーティストの一人であるジョン・レノンが、上記のようなプロセスをたどったのだ。
ライブから離れて曲作りやレコーディングに力を入れ、曲の内省性が高まっていくにつれ、ジョンは次第にシャウトしなくなり、代わって感性で歌うケースが多くなっていく。
こうした変化について、初期のビートルズが好きな人はジョンが下手になったといい、ビートルズ後期からソロのジョンが好きな人はそこに彼の「神秘性」を見出すという。
これについては、チャック近藤『ビートルズサウンズのツボ』(シンコーミュージック、1998年)の87頁あたりを参照のこと。
「My Best Friends」でのTakayoのボーカルの弱さ(のように聞こえるもの)は、もちろんミキシングの問題もあるが、こうしたボーカル面での変化が反映されているのかもしれない。
すなわち、丁寧に歌おうとするとロック的な迫力に欠けてしまうが、かといって以前のように吐き出すようにシャウトすることはもはやできない(し、したくない)、というある種のジレンマ状況を示しているようにも思えるのである。
・より成熟したロック・ボーカルをめざして
筆者は、TakayoがMICAジョンからボイトレを受けたこと自体は、けっして間違った選択ではなかったと思っている。これによって歌えるジャンルや表現の幅が拡がったことは確かであるし、喉を痛めるリスクも減ると思われるからだ。(注)
(注)いざとなればTAKAYOのボーカルをカバーできる仲間がいたZONE時代とは異なり、ソロとなった以上、ライブの責任は彼女が一人で背負わなければならないわけだから、喉を痛めかねない無謀な歌い方を彼女が差し控えるようになるのは、ある種当然であろう。
逆に言えば、「空想と現実」での大暴れは、信頼できるメンバーがいたからこそ可能だったとも言えるわけである。
確かにロックにおけるより喉に負荷をかける歌唱と、MICAジョンから教わった腹式をより利用するR&B的な歌唱との折り合いをつけることは、Takayoならずとも困難な課題なのかもしれない。
ただ個人的には、へたに以前のように歌おうとして喉を痛めるよりは(注)、新しく学んだ正統な歌唱法で訓練や経験を積んでいって、彼女なりのより成熟したロックが歌えるようになればいいのではないかと思っている。そう、若かりし頃(今でも十分に若いのだが(笑))のエネルギーの爆発とはまた違った、深みのある彼女らしいロックをである。
(注)もちろん、何度も喉を痛めたりつぶしたりすることによって、迫力のあるロックやブルースが歌えるようになるケースもあるだろう。
ただ、これは思いっきりジェンダー・バイアスのかかった意見だが(笑)、個人的には女性シンガーにはキレイな声のままでいていただきたいのだ。(「翼の折れたエンジェル」でお馴染みの)中村あゆみのように、生まれつきハスキー・ボイスであるなら別だが、ムリに/不注意でつぶした声というのは、どこか不自然なものが感じられるからである。
もっと大きな問題は、喉をつぶすことで、かつての名曲が名曲でなくなってしまう可能性があることだ。
例えば、今やすっかり酒焼けしてしまった中森明菜の声は、演歌やブルースを歌うにはちょうどよいかもしれない。しかし、「陰のある初々しさ」が魅力だった「スローモーション」(デビュー曲)は、今の彼女のボーカルにはあまり似合わなくなってしまっている(以下の映像を参照)。
もちろん、そんなロックを歌える日が来るまでかなり時間がかかるかもしれない(し、現在の沈黙状況が続くようなら永遠に来ないかもしれない(涙))が、音楽にこだわりのあるTakayoなら必ず成し遂げてくれるものと、一ファンとして期待している。
(以下、次号)
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